六 混濁
高原は一般病棟の入口で面会者票に記入し、角を曲がった奥の二人部屋へと向かった。
病室へ入ると手前のベッドは空いており、奥のベッドはカーテンが閉まっていた。朝から荒天の日曜の、昼近くの窓の外は夕暮れのように暗く、ブラインド越しに路上の水を切って車が行き交う音が聞こえる。
病室奥のベッドのカーテンを開けると、枕に流れる漆黒の長髪と対照的な青白い顔をして、瞼も唇も固く閉じて月ケ瀬が横たわっていた。
それから三十分近くの間、高原はベッド脇の椅子に座って、眠っている同僚の顔を時折不安そうに見つめていた。
時計に目をやり、立ちあがって高原がカーテンの隙間から出て行こうとしたとき、後ろから小さくしかしよく通る声で呼びかけられた。
「なにか僕に伝えたいことがあるの?」
高原は振り返った。月ケ瀬が目をあけてこちらを見ていた。
「いつから目が覚めていたんだ?」
「五分くらい前から。」
「ひどいな。」
「君の気配が妙に深刻だったから、起きにくかったんだけど。」
高原は苦笑した。
「お前の寝顔を見ていると、息してないように見えるからさ。不安になるんだ。」
「用件は何?」
高原は椅子に座った。
「特にそういうわけじゃない。」
「そう。じゃあ、具合はどう?とか聞くんだね?」
「あまりよさそうじゃないな。」
土曜日の朝に意識が戻ってから、その日の午後に一般病棟へ移り、まだ少ししか時間がたっていない。
月ケ瀬は顔を真上に戻し、天井を見る。
高原は窓のほうを見て、黙って足を組む。
数分ほども沈黙が続いた後、再び月ケ瀬が、今度は真上を見たままで言った。
「・・・・葛城は、退職願を出したの?」
ぎょっとして高原が両目を見開いたのを、流し眼のような横目で月ケ瀬は一瞥した。
高原は答えない。
「真面目な人だね。クライアントが被害に遭ったわけじゃないのにね。」
「・・・・・・」
「中途半端に、考えすぎるタイプ。想像つきすぎて、うんざりする。」
高原はブラインドに目をやった。雨音のする室外と、室内はほぼ同じくらいの暗さである。
「昨日の・・・土曜の夜、事務所で波多野部長に手渡したそうだ。」
「こんなところにいていいの?高原。」
「・・・・・」
「撤回するように説得しに行かないといけないんでしょ?」
高原は視線をやや下げ、そして首をふった。
「それはもう波多野さんが夜中までやった。」
「じゃあ、あきらめたんだ。」
切れ長の冷たく美しい両目を細めて、月ケ瀬が短く笑った。
「・・・・・・」
「もしかして、君は、葛城が辞めることになって喜んでるんじゃないの?」
「・・・・」
「だって、そうすればもう二度と、あいつが命の危険に瀕することはない。いいんじゃない?山添や、それからあの新人警護員くんにも、転職を勧めてみたら?」
「そうかもしれない。」
月ケ瀬のほうを少しだけ見て、高原は天井へ目をやった。
「君も、そのときは、辞めたほうがいいね。」
「どうしてだ?」
「アンフェアだから。」
「・・・・・」
「自分だけ安心するのは、アンフェア。」
薄い唇の両端をあげて、月ケ瀬はくすくす笑う。
高原は立ち上がった。
「じゃあ、行くよ。」
「・・・お見舞い、ありがとう。・・・奇跡を祈っているよ。うそじゃない。」
「・・・・・」
「ただ、そのときは、うちの会社の、混沌の始まりになるよ。」
高原は再び驚愕の表情になったが、月ケ瀬は反応せずベッドの上で目を閉じた。
山添は大森パトロール社の事務室で、応接室まで上司を追い詰めていた。
「怜の首根っこを押さえつけてでも撤回させてくださらないと、だめですよ!」
「怒るな、崇。」
「あるいは少なくとも、辞表なんかその場で破棄してください。」
「辞表じゃない、退職願だ。」
「そんな区別どうだっていいです。」
「あいつは、有能なガーディアンだ。うちの会社にとってとても大事な人材だ。それに、それだけじゃない。俺は、それ以外の仕事をしているあいつは想像できない。あんなに、ボディガードにどこからどう見ても見えないやつなのに、それ以外のことをするように生まれてきたように見えない。四時間ねばったよ。」
「・・・・」
波多野は応接室のソファーに腰を下ろした。
「だが、月ケ瀬が死にかけたのは、厳然たる事実だ。」
「それは・・・」
「今回の警護で、メイン警護員としてのあいつの選択が間違っていたかどうかは、誰にも決められないことだ。だが、仲間の警護員が死にかけたことなど気にしなくていいから辞めるな、とは、上司として言えない。」
「・・・・・」
「あいつがその点にこだわる限り、最終的には、誰にもあいつを説得する術はないんだ。わかるか?」
「そんな・・・。」
「しかも、あいつの理由は、それだけじゃない。」
「・・・?」
「うちの会社が存在している理由、そして社是は、どんな違法な攻撃からもクライアントを守ること、そのためなら全てのことを・・・違法なこと以外はどんなことでもやることだ。それ以上に優先することは、なにひとつない。もちろん最後は警護員の命でさえ、だ。そして今回、我々は、クライアントの安全よりもクライアントの希望を優先してしまった。」
「・・・でも、それは・・・・」
「そのために警護を断るなら、それはそれでいい。しかし、警護を引き受けた上で、実行する上で、それをするのは、うちの会社としてはそもそも相容れないことだった。そう言われたなら、そうでしたと言うほかない。」
「・・・・」
「がちがちに言えばな。」
「それは・・・そこまで厳格に、そこまで追い詰めて考えなければ、いけないんですか・・・・?」
波多野は黙った。
山添がうつむく。
「もちろん今回のことは、全て、俺が許可したことだ。責任は上司の俺にある。あいつさえ仕事を続けるつもりがあるならば何の問題もない。だが、あいつがこういうことを考えて、詰めて、こだわるならば、身の振り方の選択肢はひとつしかなくなるということだ。」
「・・・・。」
「たとえば・・・仮に今回のことで、俺が辞めると言ったとしたら、社長も俺を止められないだろう。同じことだ。」
「・・・・」
「しかもあいつは俺に頼んで許可をもらったそのことにまで責任を感じてる。」
山添は言葉を失っていた。
波多野は少し別の話をした。
「お前、このことを晶生と茂にちゃんと伝えたよな?」
「はい。晶生は、でも、怜を説得するとは言っていませんでした。」
「そうか。・・・」
「河合さんから、連絡がありました。怜の家に行ったけれど不在で、電話してもつかまらないそうです。」
「どうするって?」
「探すって言ってました。」
「そうだろうな。」
山添は上司の顔をもう一度見た。
「俺は、これから怜の家の前で張ってます。帰ってくるまで何時間でも、何日でも。あいつに、絶対、辞めさせたりしません。」
波多野はため息をついて、ソファーの背にもたれた。
しばらくして、ふっと波多野が急に言った。
「月ケ瀬には、知らせていないんだが、お前、連絡してくれないか?」
「え?」
「普通、こういう場合、上司として月ケ瀬にわざわざ知らせることはしない。・・・お前のことで罪悪感を感じて同僚が会社を辞めようとしているぞ、なんてことを連絡する上司はいない。」
「はい。」
「だが、お前なら、あいつにうまく伝えて、そして話を聞けるんじゃないか?」
「なるほど、この問題について、あいつは当事者だし、それにそもそも、誰よりもこういうことについて、明快なことを言いそうですね。」
「ああ。もちろん、解決策なんてものは存在しないとしても、少なくとも・・・」
波多野は座ったまま、期待を込めて、目の前に立っているよく日焼けした童顔の青年を見上げた。
鬱蒼とした木々の間から雨水が零れ落ち、吹き抜ける風とともにざわめきのような音をたてて降り注いでいる。
気温がさらに下がり、茂は少し咳き込んでため息をついた。被ったままのオートバイ用ヘルメットに、雨水が当たり、肩を通って滴り落ちる。
ガードレールに腰かけていると、目の前のこの場所で起こったほんの二週間前の出来事がありありと再現され、しかもそれは同時に、もう何年も前の出来事のようにも思えた。
茂は少し前に山添からかかってきた電話のことを思い出していた。波多野部長がなぜ葛城を説得できなかったかその理屈は理解できたが、それは茂の決意を萎えさせるどころか一層強めていた。
「ここから落ちるのは、怖いな・・・」
振り返り、十数メートル下の岩だらけの沢を見下ろし、茂は少し身震いした。スリングロープを使って降りるのさえ、この高さではあまり頻繁にはやりたいことではない。ましてや重傷の体で犯罪者と揉み合いながらダイブするのは、どんな精神状態なら可能なのだろうと、考えてみる。
何度考えても堂々巡りする。
そして茂の頭の中の混乱を中断するかのように、車が道路を上がってくる音が聞こえてきた。今日、もう何度目かのことだ。そして茂は、長時間待った努力がようやく報われたことを知った。
雨の山道を慎重な運転で、葛城の私物の乗用車が上がってきた。
車は、茂がガードレールに座っている位置の、かなり前で急停車した。
運転席の扉が開き、葛城が降りてきた。
「茂さん・・・何やっているんですか?いつから、ここに・・・・?」
茂はガードレールから離れた。
「よく覚えてないですが、二時間くらい前からだと思います。バイクを飛ばしてきたので、思ったより早く着きました。」
茂はオートバイ用のヘルメットを脱ぐ。雨が直にその絹糸のような茶色い髪を濡らしていく。
葛城の髪にも、降り注ぐ雨がかかり、すぐに髪の先が滴を落とし始めた。
「・・・私が着くまで、どのくらい待っているつもりだったんですか?」
「絶対来られると思いました。」
「なぜ、来ると?」
「葛城さんは、思いつめられると、その場所を上書きしようとされます。」
「なるほど、前回それを学習されたんですね。」
「はい。」
葛城は困ったような笑顔をして、顔を少し傾けた。
そして、もう数歩歩いて、茂に近づき、右手を伸ばす。
「冷たい雨の中で、体が冷え切っているはずです。」
右手の指の背で、茂の左頬に触れる。
「すごく冷たいですよ。車に乗ってください。」
「葛城さん、俺は、ただの会社の後輩のひとりに過ぎませんから、葛城さんがどうしてそんなに有能なのにみすみす仕事を辞めてしまうんですかとか、俺にはずっと一緒に仕事してほしいと言ったのにその葛城さんがどうして先に辞めてしまうんですかとか、そういうことを言う資格はありません。」
「はい。」
「それに、葛城さんと別に一生会えなくなるわけでもありません。お家だって知ってますし、嫌がられてもしょっちゅう遊びに行きます。」
「はい。」
「いつ、どんな選択をしようと、葛城さんの人生です。そのことは、俺がどうこう言うようなことでは、ありません。」
「はい。」
「でも、最後の警護案件を、ここで、ペアを組んで一緒に担当したのは、俺です。だから、今日のうちに、言いたいことがあります。」
「・・・・言ってください。」
「ペアじゃないですね、三人です。月ヶ瀬さんと。」
「そうですね。」
「俺は、前に葛城さんに、三村が言ったことを伝えたことがあります・・・。他人から本当に自由な人間は、寂しいというより本人は幸福。誰にも頼らないかわりに、誰からも頼られないことも。だから、月ヶ瀬さんのことを、考えたり、心配したり、そういうこと自体が、なにより本人にとって、無用なことなのかもしれないって。」
葛城は頷く。
「きっと、そうなんでしょう。三村の言うとおりなんでしょう。」
茂は雨水のしたたり落ちる髪が顔に張り付き、振り払った。
「でも葛城さん、さっき、俺の頬が冷たいっておっしゃったとき、もしも俺が、余計なお世話ですって言ったら、俺に優しくするのをやめますか?」
「・・・・やめません。」
「月ヶ瀬さんが、あのままで良いって、思われますか?」
「・・・・・」
「葛城さんは、本当に、思っておられるんですか?月ヶ瀬さんが、幸せだって。」
「・・・・」
「あれで良いって。問題ないって。本当にそう思われますか?」
葛城は追い込まれるような目で、茂を見つめている。
「葛城さん!」
「・・・・思いません・・・。」
葛城の答えを聞き、茂は目を閉じ、再び開いて、葛城を睨みつけるように凝視した。
そして後ろのガードレールを振り返った。
「あそこから、月ヶ瀬さんは、犯人もろとも転落しました。」
葛城は黙って同じ方向を見た。
「最初の襲撃犯が来たとき、葛城さんの前に月ヶ瀬さんが立ちふさがったのは、通常の警護のセオリー通りでしたよね。」
「はい。襲撃犯があのように目立つかたちで襲ってきた場合、警護の手や注意を逸らすことがその目的の半分であり、もう一人・・・第二の襲撃犯がいて、そちらがターゲットを最終的に殺害する、という方法が典型です。」
「だから、メイン警護員の葛城さんが第一の襲撃犯に手間取ったら、あるいは万一倒されたら、第二の襲撃犯はサブ警護員しかいない状況になり、クライアントが非常に危険な状態になります。」
「そうです。」
「だから、本来はサブ警護員のサポートと周回警護の担当だった月ヶ瀬さんが、第一の襲撃犯を担当することにした。第二の襲撃犯はよろしく、と月ヶ瀬さんが葛城さんに言ったのは、もちろんそういうことですよね。」
「はい。」
「でも、おかしいです。」
「え・・・?」
「どうして、第一の犯人を下の沢まで落とさなければいけなかったんでしょうか。」
「・・・・・」
「そして、どうして・・・・」
茂は、手に持ったオートバイ用ヘルメットを、葛城に向かって示すように持った。
「・・どうして、あのとき月ヶ瀬さんは、ヘルメットを葛城さんへ投げたんでしょうか。」
葛城の表情が明らかに変わった。
茂は、目を閉じ、さっきよりさらに長い間閉じ、そしてゆっくりと開けた。
「山添さんは、このことを尋ねたとき、言ってくれました・・・。あれは、クライアントがヘルメットが必要になる可能性を・・・つまりメイン警護員に万一のことがあり、あるいは車が使えなくなったり、そういう場合にサブ警護員がオートバイを使ってクライアントを退避させる必要が生じる場合を・・・そういう場合を考えてのことでしょう、と。そう言ってくださいました。でも・・・・」
茂はヘルメットを持った手を下げ、一歩踏み出した。
表情は怒りにかわっていた。
「・・・でも、それは違う。車にキーはついていました。俺はクライアントと車のすぐ傍にいました。オートバイなんか絶対使いません。」
「・・・・」
「月ヶ瀬さんは、第一の犯人をどんなことをしても倒す・・・必要なら自分もろとも殺す、最初からそのつもりだった。」
「茂さん・・・・」
「いえ、もっと言うなら・・・」
「やめてください、茂さん!」
茂は、容赦しなかった。
「ヘルメットを投げたのは、それを持ち主が二度と使わないから。ただそれだけの理由だったのではないでしょうか。」
沈黙があった。
葛城は茂から目を逸らしてはいなかったが、両目を見開き、何かに抗うように、しかし金縛りにあっているように、動かなかった。
さらに茂は、言葉を重ねた。
「葛城さんもそうですし、月ヶ瀬さんも、経験豊かな警護員でいらっしゃいます。相手と対峙したら、手を合わせる前に、もう相手の実力はだいたい分かる。そうですよね。」
「・・・・そうです。」
「第一の襲撃犯と至近距離で向き合った瞬間に、月ヶ瀬さんは、身を挺して殺す決心をされたんですよね。」
葛城は観念したように両目を閉じ、答えた。
「・・・・そうです、おそらく。」
「葛城さん、教えてください。」
「・・・その、必要が、あったのかどうか、ですか・・・・?」
「そうです。」
葛城がうつむいた。
小さく、その声が、答えた
「もちろん、ありません。あいつの実力なら九十九パーセント、あの相手でもあの場で止めることができたでしょう。それを・・・あそこまでするのは、ただそれを一〇〇パーセントにするということを・・・・すべての事柄に優先するということ、自分の生命も含め・・・。そして・・・」
「そしてそれだけではないですよね」
「そうです、そして、その一パーセントという数字と引き換えに考えられるくらいに、彼にとって・・・・・」
葛城の声が詰まった。
続きは茂が言った。
「・・・そのくらいに、月ヶ瀬さんにとって自分の命というものが、重みのない、軽いものだったということです。」
茂の目が、怒りで細められた。
「だから、自分が負傷することを、一切構わない応戦方法をとられた。ひとつのことだけを、すればよかったからです。相手を確実に墜落させる・・・それだけを。」
「そうです・・・・」
葛城は、うつむき、そのままじっと立ち尽くした。
茂は、その表情を怒りから懇願へと変え、言葉をさらに続けていく。
木々の間から降りつける雨が、勢いを増していた。
「葛城さん、お願いです。月ヶ瀬さんを、あのままにしないでください。」
「茂さん・・・・」
「俺には、わかりません。どうすればいいのか。誰がいったい、月ヶ瀬さんになにかしてあげられるのか。」
「・・・・」
「なにをしても、意味がないんだと思います。きっと。なにをしても月ヶ瀬さんにとっては迷惑で。邪魔で。そして、むなしくて無駄で。」
「・・・・茂さん!」
葛城が、茂に再び近づき、その右頬に右手の指先で触れた。
茂の目から、雨に混じって涙がこぼれ落ちていた。
「でも、それが、どうだというんですか。」
葛城の手が、茂の、濡れた髪に触れる。
「そうですね」
そのまま、葛城は、茂の頭を右腕で引き寄せるようにして、右胸で抱きしめた。茂は額を葛城の右胸につけたまま、コントロールを失った感情と涙をなんとかしようとした。
葛城がもう一度言った。
「そうですね・・・」
足元の坂道を雨水が小川のように、地面の細かい砂粒や葉を少しずつ取り除いて流れていく。
茂が、山添に聞いたひとつの大事な伝言を、葛城に伝えるのを忘れていたことに気付いたのは、帰りの高速道路を降りたときだった。