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五 闇夜

 看護師が山添に声をかける。

「意識状態は良好ですよ。先生も、短時間なら会話をしてもいいとおっしゃってました。話しかけてあげてください。」

 山添は葛城のほうを見て、促す。

 葛城は恐る恐る枕元に近づき、上体を傾け、月ケ瀬の顔を少し覗き込むようにして声をかけた。

「・・・月ケ瀬。俺だ、葛城だよ。」

 すぐに反応して、月ケ瀬の視線が葛城の顔を捉えた。葛城の言葉はしかしそこで途切れた。

 山添が、葛城の両肩を後ろから両手でつかみ、支えるように軽く揺する。

 数秒かかって、ようやく葛城の次の言葉が聞こえた。

「ごめん、月ケ瀬・・・。」

 数秒間、月ケ瀬は葛城の顔をじっと見上げていた。そして、細いがよく通る、酸素マスク越しにもはっきりと聞き取れる声で、ほぼ茂の予想を裏切らない返答をした。

「無駄な謝罪は、迷惑だ。」

 そのまま視線をもとに戻し、月ケ瀬は葛城を視界から外した。

 じっと動けずにいる葛城をようやく促して、山添はベッドから離れさせた。

 後ろに来ていた高原と波多野に場所を譲るためだった。

 葛城は山添に両肩を支えられたまま集中治療室出口まで来て、山添のほうを見て力なく微笑んだ。

「ありがとう。大丈夫だ。晶生のところへ行ってくれ。」

「ああ。でも、待合室まで一緒に行くよ。」

 誰もいない待合室の椅子のひとつに葛城を座らせ、山添はとなりに腰かけた。

「あ、俺、なにか飲み物買ってきます」

 茂は自動販売機へ走る。

 山添は、隣の同僚が両目を閉じてうつむくのを、見ていた。

「よかった・・・・」

「怜・・。」

「意識が戻って、本当に・・・。もう、二度と、目が覚めないんじゃないかと、思った・・・。二度と話をすることも、できないんじゃないかって・・・・」

「・・・・」

「本当に・・・よかった・・・」

 葛城は深くうつむき、両手の平で両目を覆った。

 コーヒーを持って戻った茂は、声を殺して葛城が泣いているのを見た。

 山添は葛城の肩を抱いた。

 茂がふと集中治療室のほうを見ると、出てきた高原がこちらを向いて黙って立っていたが、茂と眼が合うと、手招きした。

 そっと高原のところへ茂が行くと、高原はため息をついて、葛城のほうを見ながら少し情けない表情をした。

「月ケ瀬と怜が、ほんの少しでも、普通に話ができる関係だったらよかったのにな。」

「・・・はい。」

 高原は、もう一度ため息をつくと、少し沈黙し、そして表情を少し明るくして茂の顔を見下ろす。

「ありがとう、河合。・・・ほんとに毎日怜の家に泊まりこんでくれたんだもんな。」

「お安い御用です。」

「やっとお役目終了だ。お礼になにか御馳走するよ。」

「ありがとうございます。」

 茂は、涙を拭った目でにっこりとほほ笑んだ。



 高原が事務所に戻ると、机上の電話メモに気がついた。

 三十分後、大森パトロール社の事務所の来客用入口から入ってきた三村英一を、受け付けカウンター脇から出てきた高原が出迎えた。

「こんにちは、三村さん。すみません、わざわざ。」

「いえ、こちらこそ、折り返しお電話頂いてしまってすみません。高原さんがいらっしゃるときに伺いたかったので。」

 英一は深い漆黒の髪と同じ色の、端正な両目で少し微笑んだ。

「土曜日もお仕事なんですね。」

「今日は非番なんですが、事務作業が少し残っていて。」

「・・・お電話でお話した、父からの届け物です。」 

「ありがとうございます。みんな喜ぶでしょう。」

 手に持った紙袋を高原に手渡し、英一はもう一度ほほえんだ。

「甘いものも辛いものも取り交ぜるように言っておきました。」

「はははは。」

「高原さん、何か良いことがあったようですね。でも、なんだかお疲れでもありますね。」

「・・・・」

「河合が、ここしばらく、いつも以上に会社で廃人状態になっているんですが、次の月曜には多少は復活してくれるとよいのですが。」

「それはたぶん大丈夫でしょう。でも、大丈夫じゃない、かも知れません。」

 高原は眼鏡の奥の知的な両目に少しの愛嬌を残したまま、英一の顔を見た。

「三村さん、まだ少しお時間ありますか?」

「大丈夫ですよ。」

「よろしければ・・・・」

「外で、コーヒーでも飲みますか。」

「はい。」



「恭子さん、それは誤解です。」

 応接コーナーの椅子に座って足を組む上司の前で、酒井は弁明していた。

 土曜の午後の事務室は無人で電灯も消されていたが、ブラインド越しの明るい陽光だけで室内は十分な明るさだった。

「どこの誰だろうと、興味を持ったら無駄に調査するのが、社長の数少ない悪癖のひとつなんだけど。」

「はい。」

「その手伝いを私のチームのエージェントがやったとしたら問題ね。」

「ですから違いますって」

「私からこの間も社長に注意して、もうしませんっておっしゃっていたのに。」

「そのことは知ってます」

「今朝事務所に来たら、社長室でコーヒー四杯飲みながら、大森パトロール社の月ケ瀬透警護員について話を聞くことになった。」

「社長、機嫌良かったんでしょうな。今朝方ようやく意識を取り戻しはったんで・・・月ケ瀬さん。」

「酒井も月ケ瀬を気に入ったようだしきちんと彼を助けてくれたし好みが合って嬉しいとおっしゃっていた。」

「全然説明不足ですがな。」

 酒井は長身をようやく少しソファーの上で伸ばした。

 吉田は、鼈甲色の眼鏡の奥の目を伏せ、静かに笑った。

「でも、借りを返せたことは、よかったわ。」

「・・・そうですよね。」

「あの後、継母のほうはつかまったの?証拠は足りなさそうだけど。」

「逮捕は無理かもしれませんな。でも、二人の襲撃犯人のうち、生き残った方が、誰からの依頼であるか自白したみたいです。警察ががんばればなんとかなるかも知れませんな・・・・田中りえの逮捕も。」

「あなたやっぱり、そしてまだ、調査しているのね。」

「いえ、社長から聞いただけです。」

 酒井は額に手の甲を当てて苦笑した。

「いずれにしても、悲劇的ね。田中三沙子さんにとっても。・・・・そして・・・・」

「大森パトロール社さんにとっても、ですな。」

「ええ。」

「敵がダメージ受けるのは、小気味がいいけど、半分自分の身が切られるようでもありますな。不思議なもんです。」

「・・・そうね。」



 高原と英一は、大森パトロール社の身辺警護部門の事務所が入っている雑居ビルから、駅を過ぎて少し歩いたところにあるコーヒー店に入った。平日昼間とは違い、サラリーマンではない多種多様な客がテーブルを埋めている。

 小さめのテーブルの下で長い足を組むのをあきらめ、斜めに椅子に座り、英一はテーブルに両手を組んで置いた。

「月ケ瀬さんの容体は、いかがですか。たぶん、良い方向へ向かわれたんだと思いますが。」

 いきなり核心をつかれ、高原は苦笑した。

「・・・・おかげさまで、今朝、意識が回復したところです。」

「よかったです。」

 高原は、テーブルに頬杖をつき小さくため息をついた。

「三村さんは、少し勘が良すぎます。」

「・・・あなたほどではありませんが。」

「いつの日か、私も、あなたの悩み相談ができるようになりたいと思います。」

「それは、特に、大丈夫ですよ。」

「まあ、三村さんには、河合がいますからね。」

「彼は悩みの相談相手ではなく、製造元ですけどね。」

「はははは。」

 店員が注文を取りに来る。二人はコーヒーを頼んだ。

「今の高原さんは、俺に、河合のことを尋ねてほしいとおっしゃっていた当初に比べて、はるかに大変そうです。」

 英一の顔が少し穏やかになり、高原は、一瞬目を伏せて微笑んだあと、英一の両目に視線を戻した。

「河合は、ずっと、怜のところに泊り込んでくれました。」

「はい。」

「夜、ときどき家を訪ねてくれるだけでもありがたいと思いましたが、本当に連日・・・。」

「あいつは微妙なコントロールが効かないですからね。」

「月ケ瀬の意識が戻って、怜もようやく落ち着いたと思いますが、あいつがこれからどんなふうになるか、想像がつきます。」

「・・・葛城さんらしさを、かなり亡くしてしまわれるかも、しれませんね。」

「はい。」



 酒井が深刻な顔をしたので、吉田は少し表情を和らげて部下の目を見た。

「どうすればよかったと思う?」

「え?」

「聞き方が悪かったかな。・・・あなただったら、どうしていた?」

「俺が、田中三沙子の警護を請け負っていたとしたら、ですか。」

「ええ。」

 酒井は眉間にしわを寄せ、上司へ、回答の免除を無言で求めた。吉田は首をふる。

「もちろん、俺が探偵社の人間じゃなくて、警備会社の人間だったらという前提ですよね?」

「ええ。」

「葛城さんと、おんなじことしたと、思います。」

 吉田は困った顔をして笑った。

「酒井、正直すぎる。」

「・・・そして、こういう結果になったら、恐らく、警護員を辞めると思います。つまりこのケースを乗り越えるには、月ケ瀬さんくらいの非情さがないと、無理でしょう。」

「そうね。」

「恭子さん、なにか救いのコメントはないんですか?」

「なにかほしい?」

「ほしいです。」

「大森パトロール社がこれからも、純粋な意味で、創業時の社是を微動だにさせないならば、あなたの言うとおりの道しかないでしょう。」

「そうですな。」

「そうでないなら、選択肢は増える。ただし・・・道は、闇夜になる。」



「それは、あいつの、警護員としての死にも等しいでしょう。」

「そうですね。」

「・・・・・」

 英一は既に冷めかけたコーヒーをひと口飲んだ。

「月ケ瀬さんと、葛城さんが、もっと普通に話せる間柄だったらよかったですね。」

「はい。」

「今回のようなケースは、たぶん誰であっても、一人で本当の意味で乗り越えることはできないでしょう。」

「そう思います。」

「高原さんは、月ケ瀬さんとずっと会社で一緒だったと思いますが、月ケ瀬さんのことを、どう思われていますか?」

「・・・・大森パトロール社の警護員として、どこから見ても非の打ちどころがありません。どんなクライアントであろうと、犯人であろうと、囚われることは絶対ありません。そして、考えうる全ての手段を使って、犯行を阻止することだけを、徹底して・・・そして必ず、やり遂げる。」

「なるほど。つまり例えば、あの茶室での事件で担当警護員が月ケ瀬さんだったら、犯人の自殺など平然と無視して、クライアントを連れて立ち去ったんでしょうね。自分の腕に切りつけるようなこともなく。」

「そうでしょうね。」

「それが正しいと知りながら同じことができない、高原さんや葛城さんとはずいぶん違いますね。」

「・・・・・」

「そんなことが、月ケ瀬さんにだけできるのは、どうしてだと思われますか?」

「・・・わかりません。」

「河合が、言っていました。なぜ月ケ瀬さんは、こんなに仕事もできて性格も優しい、会社の仲間たちと仲良くしないんだろう、と。」

「・・・・・」

「他人に無用の同情をしない、そういうことが真に徹底してできる人間は、病的な犯罪者を除くならば、たぶんあとは一種類だけでしょう。」

「・・・自分に同情しない人間ですね。」

「そうです。もっと正確に言うならば・・・他人と自分との間に、不合理な人間関係を一切持たないと決めている人間ということだと思います。」

「それは・・・」

「理由は色々だと思いますが。」

 高原は、集中治療室で会った、月ケ瀬が育った施設のもと園長の言葉を、思い出していた。

「三村さんには、想像がつきますか?」

「つきます。」

 英一は、漆黒の端正な両目をかすかに細めた。

「教えてください。」

「他人との関係を避けることで、自分に依存する人間がいなくなります。自分を好きだったり、愛していたり、頼っていたり、そういう人間を、つくらずに済む。」

「・・・!」

 高原の表情が凍りついた。

「それはつまり、自分を必要とする人間をつくらずに済むということです。」

「三村さん・・・・」

 高原が懇願するような目で英一を見たが、英一は続けた。

「そうすれば、自分がいつ死んでも、悲しむ人間はいない。誰も苦しめることはない。」

「・・・・・」

「そしておわかりのとおり・・・・自分にも、また、まったく同じことが言えるわけです。」

 高原は英一の顔をしばらくの間凝視し、そして、目をそらし、視線をテーブルの上に落とした。

 英一はやや同情するように高原の顔を見ていたが、すぐに、少し声の調子を変えて言った。

「高原さん、そんな顔をされることはないと思います。」

「・・・・」

「こういう人間は、不幸などではなく、本人は嘘いつわりなく非常に幸福である。そういうことが、いえるんじゃないかとも、思いますよ。」



 日曜の朝、久々に自宅で朝を迎えて少し寝坊していた茂は、携帯電話に無理やり起こされた。

「はい、河合・・・・・」

「山添です、朝からごめん、河合さん。」

「あ、あの、いえ大丈夫です。山添さん、まさか月ケ瀬さんが急変したんじゃ・・・?」

「そうじゃありません。」

 茂は胸をなでおろしたが、次の山添の言葉に、再び飛び上がった。

「落ち着いて聞いてください、河合さん。・・・怜が、辞表を出したそうです。」

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