四 渇望
茂は、平日昼間務める会社で、土日夜間の警護の仕事がないときは通常仕事ぶりは多少はマシであるはずだったが、その例外もほぼなくなったことを自覚していた。
同じ係の斜め向かいの席に座っている三村英一は、その人気俳優のような顔で茂のほうを見ながら何か言いたげで、しかし何も言わないので茂はかえって気になった。
「なんだよ三村。なにか文句あるのか?」
「いきなり喧嘩を売るな。」
「・・・・ごめん。」
茂が素直なことに驚いたように、英一がその漆黒の両目を不思議そうに瞬いた。
「お前、ここ一週間、警護の仕事もないのに就業ベルと同時に走って帰っていくよな。」
「ああ。・・・・って、なんでお前が俺の警護業務の状況について知っている。」
「昨日大森パトロールさんの事務所で高原さんにきいた。」
「いくら元クライアントだからって、諜報活動をするなってば。」
「毎晩どこへ行ってるんだ?」
「業務上の秘密です。」
英一は長身の美青年に不似合いな皮肉な笑みを浮かべた。
「やっぱり警護の仕事関係なんだな。」
「・・・まあね。そんなもんかな。」
茂は、携帯電話の着信履歴をチェックする。今日もなにもない。
悲しそうな顔で、ふっと茂は、英一に尋ねた。
「あのさ、三村。知り合いとかが、交通事故やなにかで、長いこと意識不明になったことって、あるか?」
「ええ?・・・・ああ、まあ、あるけど。」
「どのくらいで意識が戻った?」
「うーん、二週間くらいだったかな・・・。それ以上戻らないと危ないと言われたぎりぎりくらいだったな。」
茂の、追い詰められたような表情が尋常ではないことに気がつき、英一は言葉を選んだ。
「でも、それは場合によるらしいから・・・。」
「そうだよな。」
「河合。」
英一が漆黒の両目でまっすぐに茂を見ていた。
「・・・ん?」
「で、どの警護員さんが、入院してるんだ?」
私鉄駅からやや離れた古い住宅街にある一軒家の前で、茂はしばらく家の主の帰りを待っていたが、今日も遅くなりそうだという言葉を思い出してあきらめて鍵を取り出した。
自分で鍵を開けて入るのはいまだに少し抵抗がある。
家の中に入り、廊下、居間、台所と順に明かりをつけながら歩く。内装も建物同様に古いが、調度品は簡素だがどれもすっきりとして趣味が良い。
台所で、手に持ったスーパーの袋から食品を取り出し、冷蔵庫へ入れたり台所の流しで洗ったりする。しばらく後、夕食をつくった鍋をかき回していると、玄関の鍵を開ける音がした。
廊下から、先に声がした。
「茂さん、ただいま帰りました。」
「お帰りなさい、葛城さん。」
葛城が、居間を通り抜けて台所の茂のところまで来て、上着を脱ぎダイニングの椅子の背にかける。
「今日も、病院へ立ち寄られたんですね。」
「やはり数分間しか面会は許されませんが・・・。今日は崇が一緒に来てくれました。」
「明日は俺も行きますね。」
「すみません茂さん。連日、崇と交代で一緒に来てくれて・・・。」
茂は食器棚からスープ皿を取り出しながら微笑む。
「ごはんできてますよ。すぐ召し上がりますか?」
葛城はうつむいて、ちょっと笑った。
「な、なんですか・・・?」
「茂さん、ほんとに、いつでもお嫁にいけますね。」
「なにおっしゃってるんですかー。」
茂も笑う。
「でも、押しかけてきたのは本当ですね。」
葛城はダイニングの、椅子ではなくテーブルに、ちょっと腰をかけるようにして両手で体を支え、茂のほうを見た。
「ありがとうございます、茂さん。」
「・・・いえ、俺が勝手にしたことですし、逆に怒られると思ってましたし・・・・・」
「茂さんは絶対おっしゃらないけど、晶生か波多野さんかが、頼んだんでしょうしね。」
「・・・・・」
「あれから毎日、泊り込んでくれるとは、まさか思いませんでした。」
「ははは・・・・」
「晶生が言いそうです。・・・『怜が自殺しないように毎晩見張っててくれ』・・」
茂は鍋の蓋を床に思わず取り落とした。
葛城はその美しい顔で、優しく微笑んだ。
「今日で一週間ですね・・・。あいつは、全然時間なんか関係ない感じです・・・。」
「葛城さん・・・」
「シャワー浴びてきます。お腹もすきました。いい匂いですね。」
「姉直伝の野菜煮込みです。期待しててください!」
笑ってうなずくと、葛城は椅子の背から上着を取り、浴室へ行くため居間を抜けて廊下へ出て行った。
高原が集中治療室で、ベッドの上の月ヶ瀬の顔を見ながらじっと立っていると、後ろから看護師が声をかけてきた。
「もう一週間以上ですね。毎日、会社のかたが代わる代わるお見えになって・・・・。早く、意識が戻るとよいですね。」
「ありがとうございます。肉親でもない我々が、ここに入ることをお許しくださり、感謝しています。」
「身元引受人が、上司のかたですし、きっと皆さんはご家族同様ということなんでしょう。」
「はい。」
高原が出口へ向かって歩き始めると、逆に入室してきた、一人の年老いた婦人とすれ違った。その女性が静かに月ヶ瀬のベッドのほうへ向かったのを振り返って高原はしばらく見ていた。
出入り口脇に置いてあった中型のスーツケースを持ち、待合室のほうへ出た高原は、椅子に座ってしばらく待っていた。
ほどなく、さっきの老婦人が集中治療室から出てきた。高原は椅子から立ち上がり、歩み寄って声をかけた。
「あの、月ヶ瀬さんのご家族のかたですか・・・・?私は、会社の同僚の高原と申します。」
「ああ、たしか、さきほど病室におられましたね。高原さん・・・。大森パトロール社の、かたですね。」
婦人は背の高い高原の顔を見上げ、品のよい細面の顔をほころばせた。
「わたくしは、家族ではありませんが、そんなようなものかもしれません。」
「・・・・はい」
「わたくし、桧垣と申します。児童養護施設の園長をしておりました。もうリタイアいたしましたが。」
桧垣は微笑みを絶やさず、高原の顔を優しく見ながら続けた。
「透くんに、家族がいないということを聞いておられたから、意外に思って声をおかけになったのですね?」
「・・・・はい・・・。」
「少し、お話いたしましょうか。まあ、なんだか大きなお荷物をお持ちなのですね。ご旅行から?」
「はい、出張から今日戻ってその足で来たものですから・・・。」
二人は待合室の椅子に並んで座った。
桧垣氏は、高原のメガネの奥の知的な両目を見ながら、ゆっくりと話し始めた。
「この病院に透くんがいることは、大森パトロールさんにお問い合わせして教えていただきました。いつもこの時期に届く便りが途絶えて。透くんの勤め先は知っていましたので・・・。時々手紙をくれて、お仕事のことも知っていましたが、ずいぶん危ない仕事をしていると心配しておりました。そして本当に、こんなことになってしまって・・・。」
「・・・・・」
「でも、透くんといい、そして高原さん、貴方といい、とても頭のいい、賢い人がおられるところなのですね、警備会社というのは。」
「・・・・」
「透くんは、十五歳になるまでうちの施設にいました。」
「親御さんは・・・」
「お母様が、いましたよ。事情があって、透くんを育てられませんでした。とても美しい人でした。幻みたいに・・・。」
「・・・・」
「一度も再会できないまま、亡くなってしまいましたが。」
「あの、桧垣さん」
「はい」
「月ヶ瀬は・・・どんな子供でしたか・・・?」
桧垣は目を細め、そして正面を向いて、記憶をたどるように少し息をついた。
「あの子は幼いころから、特別な子供でした。皆にとって。とても美しくて、そして、とてもかしこくて。皆に好かれていた・・・というよりも、崇拝されていました。」
「そうでしょうね。」
「でも、だいたい、ひとりでいました。一人を好む子でした。」
「他人が嫌いだったんでしょうか。」
「どうでしょうかね。わたくしにも、わかりません。ただし、ひとつ言えるのは・・・・他人に頼るのも、頼られるのも、とても嫌いでした。」
「・・・・そうですか・・・」
「里親のもとも、早々に独立して、去りましたからね。」
「・・・・」
「高原さん、貴方は、透くんのことを心配してくださっているのですね。とても良いかたですね。」
「あ、いえ、そんなものでは・・・」
「あの子は、このまま、母親のところへ行ってしまうのかもしれません。」
「・・・・・」
「でも、たとえそうなったとしても・・・・この世で、こんなふうな顔で、あの子のことを聞きたがってくれた人がいたことが、あの子の幸福だったと、思います。」
高原は言葉を失った。
月ヶ瀬が入院した日を含めて三度目の週末を迎えようとしていた金曜日の夜、葛城の家の一階の広々とした和室で、葛城を手伝って二組の布団を敷きながら茂はふっと手を止めて考えこんだ。
「茂さん?」
「あ・・・いえ。」
「たまにはベッドで寝たいですか?二階の私の寝室お貸ししましょうか。」
茂は葛城のほうを見て、ちょっと微笑んだ。少し冗談を言うようなゆとりが葛城に生まれてきたことが、茂を安堵させた。
「アパートは畳じゃないんでベッドですが、俺は実家も和室だし、布団派ですよ。」
「それで、ときどき事務所の宿直室を占拠しておられるんですね?」
「ははは・・・。」
茂は葛城のほうを改めて見た。葛城はシーツを敷きながら、伏し目で苦さのある微笑をした。
「今日、私が、病院でのことを話さないのが気になりますか?」
「はい。」
「今日、事務所で会った晶生にも同じことを言われましたが・・・・。私の考えていることが、最近、茂さんにも晶生にもあまりにもばればれなので、ちょっと焦ります。」
「・・・・」
「波多野部長が、先生から、この先の治療の方針について改めて、意思表示を求められて、私も同席してきました。」
「・・・・・」
「自発呼吸ができなくなったとき、生命維持装置をつけるかどうか。そして、本人が入院前から希望表明している臓器移植について、脳死状態になったときの取り扱い。」
「・・・・」
「そんなこと・・・本人以外になんか、決められないですよね・・・・。」
葛城は、そのまま布団のうえに正座するように座り、少しうつむいた。
茂は、葛城の横顔を見ながら同様に座った。
しだいに、葛城の白い頬が、さらに血の気を失い蒼白になっていく。
「でも、一番納得いかないのは・・・」
「・・・・」
「これまで、全然気持なんか通じ合ったことがない月ヶ瀬の、思いが・・・あいつの意識がない今、なぜか、自分の耳元から響いてくるように、わかる気がすることなんです。無駄な延命なんかするなって、はっきり、言っているんです。」
「・・・・・」
「どうして・・・・」
うつむいた葛城の横顔を、濃い栗色の柔らかい長髪が隠した。
茂は、泣きたいのを我慢して、思い切って、今日ずっと話そうかどうか迷っていた、些細なことではあるが少し言いづらいことを、言うことにした。
「葛城さん、今日、三村と話をしたんです。」
「英一さんと?」
「はい。三村は性格が悪いという意味では、月ヶ瀬さんのことが他の人間よりわかるんじゃないかと思って・・・。」
葛城は赤くなった目を細めて、泣き笑いのように微笑した。
「葛城さんも、高原さんも、山添さんも、皆・・・・月ヶ瀬さんを認めているし、たぶん月ケ瀬さんも・・・。でもなぜ、月ヶ瀬さんは、こんなに仕事もできて、性格も優しい葛城さんたちと、同僚と、仲良くしないんだろうって。」
「・・・・・」
「それってすごくつまらないだろうなって。いえ、それどころか、つらそうだから。」
「・・・・・」
「そうしたら、三村は、俺と全然違うことを言いました。」
「・・・・・」
「他人から本当に自由な人間は、寂しいというより本人は幸福だって言うんです。」
「・・・三村さんが、そんなことを」
「誰にも頼らないかわりに、誰からも頼られないことも。」
「・・・・」
「月ヶ瀬さんのことを、考えたり、心配したり、そういうこと自体が、なにより本人にとって、無用なことなのかもしれないって。」
葛城は茂の、透き通るような琥珀色の両目を、その美しい切れ長の目でまっすぐに見つめた。そして、目を伏せ、小さくうなずいた。
「英一さんは、いつもながら、本当にすごいかたですね。」
「・・・・すみません・・・なんだか異常に生意気な発言なので、無視しようかとも思ったんですが、なんだか気になりました。」
「何年も一緒にいる私より、よほど、よくあいつのことを看破しておられるかもしれませんね。」
葛城は、ゆっくり立ち上がり、そして自分を制するようにして作業を再開した。
二人は、しかしそれぞれの布団に入ってもなかなか寝付かれなかった。
まだ暗い土曜日の早朝、枕元の葛城の携帯電話が鳴り、二人はほぼ同時に目を覚ました。
葛城が手探りで携帯を取り、応答する。
「もしもし、葛城です・・・。崇?」
葛城は黙って相手の話を聞いている。
茂は部屋の明かりをつけ、心臓が既に飛び出しそうになりながら、葛城の顔を凝視する。
「わかった・・・。すぐ行く。」
電話はわずか数秒で終わった。通話を切り、葛城はそのままの姿勢でじっとしている。
「葛城さん?」
「・・・・」
「・・・葛城さん・・・!」
茂の運転する葛城の車で、二人は早朝の病院へ到着した。
集中治療室の入口で波多野が待っていた。
「波多野さん!」
「走るな。大声を出すな。今、当直の先生からお話をうかがった。お前たちの面会の許可も得たから。特別に、全員入っていいそうだが、いつも通り数分間だけだぞ。」
「はい。」
「崇はもう来てるよ。あとは、晶生だな。俺はここであいつを待ってるから。」
自動ドアから入り、集中治療室入口で手を消毒する手間ももどかしく、茂と葛城は通いなれた通路を奥の病床へと向かう。
少しベッドから離れて待つ山添がこちらを振り返り、手招きした。
月ヶ瀬の点滴交換などの作業を終えた看護師が、こちらを振り返る。当直医から話を聞いていたようで、茂と葛城に微笑みかけて、先に着いていた山添を含む三人にベッド脇の場所を譲ってくれた。
月ケ瀬はベッドの上で酸素マスクをして横たわったまま、目を開けて、その漆黒の切れ長の両目で、静かに真上へ視線を向けていた。