三 困憊
茂が自動販売機から温かいコーヒーを二つ持って薄暗い待合室へ戻ってくると、葛城はさっきと同じように一番窓際の椅子で、顔を暗い窓の外の何も見えない風景へと向けていた。
「飲んでください、葛城さん。落ち着くと思います。」
茂がカップを手渡す。
「ありがとうございます。」
コーヒーには、葛城の好みどおり、ミルクだけが少し入れてある。
「波多野部長と先生のお話、ずいぶん時間がかかっていますね。」
「はい。」
緊急手術の後、集中治療室で面会謝絶の状態が続いている月ケ瀬が、意識不明の重体であることだけは分かっていたが、家族を呼ぶように言われ事情を話して波多野部長が医師との面談に入っていった後、既にかなりの時間が経過していた。
「さっき山添さんから電話がありました。月ケ瀬さんのために着替えや身の回りのものをひととおり調達したら、またすぐに戻ってくるそうです。」
「はい。」
日が暮れた病院の待合室は寒々として、静けさが実際以上にそこを広く見せている。頭上の病棟では大勢の患者やスタッフがそれぞれの戦いをしているのだろうし、そしてさらに、同じこの一階の、奥にある集中治療室では、今目の前にある生死の境目を行き交う者たちが何人もいるのだ。
誰もが家族の、友人の、生還を祈っている。そして茂はそんな中でも、やはり、どうか自分たちの仲間を助けてくださいと神に特別扱いを願ってしまう自分を止められずにいる。
止血、心臓マッサージ・・・。応急処置も救命処置も、的確だったといわれた。可能な最短の時間で搬送もした。できることはすべてした。しかし、多量の出血と深い傷、ショック、そして病院へ到着するまでに要した時間の長さが、深刻であることは明らかだった。
山添からの電話連絡を受けて、田中三沙子たちと分かれてタクシーでここへ向かったとき、葛城は既にかなり落ち着きを取り戻したように見えた。一緒に病院へ行きたいと言った田中三沙子を優しく説得することもしていた。それはもちろん、クライアントとその同僚がすべきことがほかにあったからだった。
茂と葛城は、田中三沙子からも直ちに警察へ届けるよう強く勧めた。その理由は撮影スタッフへ説明し、彼らは理解した。
その後クライアントらと別れてから今までの間、葛城は、茂がなにを話しかけても、ほとんど「はい」か「いいえ」というような返事しかしない。
月ケ瀬を乗せた救急車を見送ったときから、警護業務を終えるまでの、その僅かな間に、残っていたエネルギーを全て使い果たしてしまったかのようだった。
茂は、今、ここに高原がいてくれたらと思った。葛城が本当に仕事で苦しんでいるとき、助けられるのは高原だ。茂ではどう考えても力不足である。そして警護員としての仕事の中で、自分の責任で誰かが死に瀕すること以上の苦しみは、思い当たらない。
今回の警護案件のメイン警護員は葛城であり、現場の担当者としての責任は葛城にある。もちろん警護に一〇〇パーセントの安全はありえない。が、葛城が今回なぜ一〇〇パーセント自分の責任で月ケ瀬がこうなったと思っているか、それは明らかだ。
コーヒーをひと口ふた口飲み、葛城がうつむいたまま、ようやく自分から言葉を出した。
「茂さん、申し訳ありません。」
「え」
「先輩警護員として、最悪の見本を見せたと思います。」
視線を自分の足元へ向けたまま、低い声で葛城は続ける。
「セオリーを無視し、その影響がそのまま結果として表れました。」
茂は、まだそうときまったわけではない、といった気休めが頭をめぐったが、空しいということがよくわかった。
あの明らかに計画的な襲撃は、あることをはっきりと示していた。
「葛城さん・・・」
動機は想像するよりほかにないが、事実は論理的に導かれる。
「あの映像を見ていた人間が、襲撃を指示した。」
「・・・・」
「詳細な行程情報と、当日の現場のリアルタイムの映像をもとに、ピンポイントで指示を出した。」
「・・・・」
「申し訳ありません。」
葛城の言葉が途切れ、彼はそのまま顔を下へ向け、濃い栗色の長い髪が遅れて落ちその横顔を覆った。
街の中心にある高層ビルの事務所は、土曜の夜を迎え社長室だけに明かりが灯っていた。
「今日はありがとう、すまなかったね。」
「いえいえ。」
「ずいぶん遅くなったんだね」
「病院でちょっとねばってみたんですが、まだ容体のほうは不明です。助かるかどうか、ぜんぜんわかりませんな。」
「そうだろうね。」
阪元は、コーヒーを注いだカップのひとつを、酒井にすすめる。
「君はブラックが好きだったっけ。」
「はい。」
簡素な社長室の中央にある円卓に向かって自分も座り、阪元は目の前の、精悍な顔立ちをした長身の男性エージェントの方を見た。
その腕の包帯に目をやる。
「怪我の回復は順調か?」
「はい。ご心配ありがとうございます。」
「仕事で、怪我はしないに越したことはないし・・・・ましてや、命を落とすのは、なるべく避けたいものだ。」
「まあ、それはそうですな。」
「目的の達成のためにそれがもしも避けられないものなら、仕方がない。でも、それがもしも・・・好意や親切が、仇になったものだとしたら、空しいものだね。」
「まったくです。」
酒井は眼を伏せ、苦笑した。
阪元は一杯目のコーヒーを飲んでしまうと、酒井以上に苦みの多く混じった微笑みを短い時間浮かべた。
酒井が阪元のエメラルドグリーンの両目を、少し責めるように見た。
「社長、もう全部調べてしまいはったんですな?暇なお人ですな。」
「ひどいなあ。でも結局、君の想像と同じ結果なんだろうな。」
「事実は明白ですけど、動機が分かりません。遺産ですか?ということはもしかして・・・」
「そう、田中りえは、三沙子の継母だ。連れ子の息子がいる。」
「あーあ。目も当てられへんなあ・・・」
山添が大きなカバンと紙袋を両手に持って病院待合室へ入ってきた。
「波多野さんは・・?」
「先生と話してる。」
前列の椅子に荷物を置き、山添は葛城の隣に座った。茂は山添の分の飲み物を買いに自動販売機へ行く。
「たぶん、今晩を乗り切れば、ひと山ということなんだろうな。」
「ああ。」
葛城は憔悴した顔を少し和らげ、山添のほうを見た。
「崇、お前のおかげで、助かったよ。本当に、ありがとう。」
「いや、あまり大したことはできなかったけど・・・。」
「お前がいなかったら、あの場で月ヶ瀬は死んでたと思うから。」
「だとしたら、少しは役に立ったのかな。・・・」
山添は天井を見上げた。
「もう、いやだよな。」
「・・・・」
「仲間が、死ぬのは。」
茂は、カップのコーヒーを持ったまま、立ち止まる。唇をかんだ。自分には、なにもできないと、思った。
そのまま茂は、二人を見ていた。
その時、葛城の携帯電話が鳴った。
発信者名を見ても葛城は不審そうな顔のまま、電話に出た。
「もしもし。」
相手が名乗る。
葛城の表情が一気に変わった。驚いていた。
「怜、まだ病院か?」
「・・・なぜ、それを・・・?」
「波多野さんとの約束だ。」
「え?何を言ってるんだ、晶生?」
電話は、高原からの国際電話だった。
茂は目を丸くして、山添のほうを見た。山添はあまり驚いた様子はなく、むしろその表情には少しの安堵があった。
高原は電話の向こうから葛城に説明した。
「・・・出国前に、波多野さんに頼んだ。前に、俺が海外出張中にお前が負傷したとき・・・俺は自分が動揺して、波多野さんに迷惑をかけてしまった。けど、もうあんなことは絶対にないから、プロとして業務に支障をきたすことはないから、そのかわり、もしも俺の留守中になにかあったときは、教えてほしいと頼んだ。」
「・・・・・」
「波多野さんは約束を守ってくれた。」
「・・・そうか・・。」
「月ヶ瀬の容体は変わらずか?」
「ああ。自発呼吸は始まったけど、危篤状態が続いてるって・・。・・・波多野さんは先生に呼ばれたきり、まだ戻らないんだ。」
一瞬、高原の沈黙があった。
すぐに再びその声が続いた。
「しっかりしろよ。怜。」
「俺は・・・・警護員として、救いようがないよ。今度ばかりは。」
「そういうことは後で考えろ。」
「月ヶ瀬じゃなく、俺が、やられるはずだった。なのに俺はこうして無事で・・・」
「怜。」
葛城がうつむき、両目を閉じる。
「俺のかわりにあいつが・・・・。あいつは死ぬべきじゃない、報いを受けるべきは俺なんだ」
「・・・怜!」
「・・・・・」
「いいか、今はあいつが助かることを祈るしかない。俺たちにできることは何もない。お前がなにをしようと、あいつの生死が変わるわけじゃない。」
「・・・・・」
「とりあえず今のお前の義務は、あいつが生きるために戦っている間、何時間だろうと逃げずに傍にいることだ。いいか?自分を責めるのは、その後で好きなだけやれ。」
「・・・・わかった・・・」
「河合にかわってくれ」
茂は葛城から電話機を受け取る。
「河合、頼む。」
「はい。」
「怜から離れないでほしい。」
「もちろんです。」
「それから、一つ訊いてもいいか?」
「?」
「月ヶ瀬は、自分も死ぬつもりで、犯人に対峙していたか?」
「・・・・」
「・・・・こんなことを訊いて、すまないが・・。」
「いえ・・・」
「・・・・」
「いえ、そんなことはないと思いました。刺されたのは木刀を目くらましにした犯人側の不意打ちですし、犯人はかなりの上級者でした・・・そして、月ヶ瀬さんは、自分の負傷が最小限になるような態勢で、沢へ犯人を墜落させました。」
「そうか。」
沈黙があった。
「・・高原さん?」
「・・・ありがとう。それを聞いただけでも、ほんの少し、救われた。」
「はい。」
「あいつのことはもちろん、決してよく知っているわけじゃない。でも、うちの会社ができて以来、数年間、近くでその仕事を見てきた。あいつは、まれにみる、有能なガーディアンだ。考え方も、恐るべき一貫性を持っている。ああいう性格だし、やり方も俺は根本的に相容れない部分はあるけど、ある意味、誰よりも、すごい奴だよ。」
「はい。」
「死なないで・・・ほしいね・・・」
「高原さん・・・。」
「・・・すまない。・・・波多野さんによろしく伝えてくれ。また何か状況が変わったらすぐに教えてほしい、と。」
「はい。」
ほんの少しの沈黙のあと、高原は、電話を切った。
茂から携帯電話を受け取った葛城は、しばらく前を見たままじっとしていたが、やがて小さくため息をつき、そして隣の茂のほうを見た。
「・・・茂さん、それ、崇のコーヒーですよね。冷めてしまいますよ。」
「あ・・・はい!」
茂はまだ手にコーヒーを持ったままだったことに気付いた。山添が微笑し、それを受け取った。
しばらくして、奥の集中治療室のほうから波多野が足早にこちらへ歩いてきた。
三人は一斉に立ち上がる。
「波多野さん、月ヶ瀬は・・・・」
「お前たち、一緒に来い。」
「はい。」
「説明は後だ。とにかく今のうちに、あいつに会っておけ。」
「・・・・!」
「先生の許可はもらった。」
三人は波多野の後を追いかけ、一階奥の病室へと向かった。
阪元が立ち上がって、二杯目のコーヒーを淹れに行った。
カウンターでポットを傾けながら、少し声を明るくして話し続ける。
「電話でもよかったんだけど、今日ここまで来てもらったのは、久々に君と雑談したかったんだ。こんな話題じゃなきゃもっと良かったけどね。」
「はあ、それは光栄です。」
月ヶ瀬のそれと似た漆黒の髪を耳の下まで無造作に伸ばしている酒井と対照的に、阪元の髪はきちんと手入れされそして明るい金茶色で、それはその深い緑色の両目と同じく、異国的かつ生まれ持った色彩だった。
二人は、顔立ちも正反対の特徴を持っていた。酒井が野生動物のように精悍であるのに対し、阪元は深窓のお坊ちゃまがそのまま成長したらこうなると思われるような折り目の正しさである。
そして、酒井は和泉に露骨に言っていたとおり阪元が苦手だったが、なぜか阪元は酒井とよく話したがる。
阪元はテーブルに座ってコーヒーカップを傾けながら、酒井の、時折その鋭さが垣間見える黒い両目を見て、口を開く。
「大森さんのところは、また、ちょっとした試練だね。」
「ええ。」
「うちもこのあいだ、ちょっとボロボロになったばかりだから、他人事とは思えない。」
「・・・・」
「恭子さんは、元気?」
「元気ですよ。でも、社長のほうがしょっちゅう会ってはるんやないですか?」
「上司に見せる顔と、部下に見せる顔とでは、また違うものだと思うからね。」
酒井は少し何かを思い出したような表情になった。
阪元が首を微かに傾け、そして微笑する。
「恭子さんは、でも君たちとチームを組んで、ずいぶん以前とは変わってきたと思うよ。優秀なのはもともとだけど、なんというか、自分というものを少し出してくれるようになった。」
「そうでしょうか。」
「あれでも、そうだよ。彼女と初めて会ったとき、私が驚いたのは、もちろん第一には彼女の頭の良さだけど、もうひとつは・・・そこにいるのに、まるでいないみたいな、感じだった。」
「・・・・・」
「誰かとチームで仕事をする、というような意識も、皆無だったと思うよ。でも今は多分、ほかのどんなことよりも、部下のことをいつも考えているんじゃないかな。」
「そうですね。そう思います。」
「君は、どう?」
「え?」
「阪元探偵社で、たぶん、酒井・・・君ほど、あらゆる面でバランスの取れた、能力の高いエージェントは稀だし、経験値もピカいちだ。逆に言えば、君がどう思うかで、そのエージェントの実力も、そして特徴も、わかる。」
「身に余るお言葉ですが」
「恭子さんを見ていて、どう思う?」
「いえ、特に、なんも問題ないんとちゃいますかね?」
「正直に言っていいよ。」
酒井は、相手の意図を測るようにその顔を見ていたが、しばらくして、言った。
「語弊があるかもしれませんが、あの大森パトロール社さんと関わるようになってから、なんか、見ていてちょっと危ういと思うことがありますね。」
「そうか。」
「あの人たち、ほんま変人やけど、なんか妙に気になるもんがありますしね。」
「うん。」
「そしてなにより、ドMですから。あの人たち。」
「はははは。」
阪元は親しみを込めて部下の顔を見ながら、笑った。
「社長と正反対ですな。そう、そして恭子さんは・・・時々、見ていて痛々しいくらいに、不合理に自分の全部を後回しにしようとすることが、あります。今までそんなふうなことがなかったとしたら、やっぱりあいつらのせいですかね。」
「・・・・・」
「・・・この間、脅されました。恭子さんに。」
「え・・?」
「俺がもしも自分の命を粗末にしようとしたら」
「・・・・」
「俺が死ぬ前に恭子さんが死ぬぞ、みたいなこと、遠回しに、でもはっきり言われました。」
「・・・・・・」
「あの日から、俺、ときどき夢でもうなされますわ。」
「そうか・・・。」
阪元は、両肘をテーブルにつき、両手を顔の前で組んだ。
「でもそれは、恭子さんというより、君を含めた、彼女のチーム全体に波及しつつある病なのかもしれないよ。」
酒井は少し驚いた顔で上司の顔を見つめた。
集中治療室の中央のベッドに、月ヶ瀬はいた。
ナースステーションを囲むように配置された病床はほとんど埋まっていたが、つい数分前に空いたようなものもあった。まだ家族に支えられて泣いている老女が出口へ向かってゆっくり歩いている。彼らとすれ違いながら、茂は自分はあんなふうに泣くのは本当に嫌だと身勝手にも神に願い続けていた。
波多野が看護師に会釈し、三人を促して一緒に月ヶ瀬の傍らへと行く。
茂は、酸素マスクの下で唇をわずかに開き、眠っている月ヶ瀬の顔が、ことのほか美しく、そして遠いことを、感じた。
かつて葛城が負傷したとき、月の光の下で見たその姿は、この世に生まれるには美しすぎた者を、天が早々に天上へ引き戻そうとしているかのように見えた。
しかし目の前の月ヶ瀬は、むしろ自らの意志で、この地上の愚かな同僚たちとの仕事に辟易して、再び生きて戻ることを拒絶しているように見えた。
「今夜を乗り切れば、最初の山は越えたといえるそうだが」
波多野が、月ヶ瀬の顔を見下ろしながら言った。
「だが、意識が戻る可能性はかなり低いそうだ。そして意識が戻らなければ、恐らく数日以内に急変する・・・・運よくそれがなかったとしても、植物状態になることが、かなりの確率であるらしい。」
「・・・・・」
「だがもちろん、数週間、あるいは数か月後に、意識が戻った例もあるそうだから、あきらめることはない。」
「・・・はい。」
葛城が、おそるおそる右手を伸ばし、点滴をしていないほうの月ヶ瀬の手にそっと触れた。
看護師は制止はしなかった。
月ヶ瀬の手を、葛城が右手で、次に両手で、握りしめた。