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水無更紗は

作者: 栗林

 水無更紗は、死にました。


   ***

 カラリ、と軽く音を立てて教室の後ろの扉が控えめに開いた。クラス中、一気に緊張が走った。

 扉を開けた主は明らかだ。今時分まで保健室で休んでいたはずの水無更紗。元より真白な肌をさらに青白く染め、無表情でそこに立っていた。形の良い唇はきゅっと結ばれている。


 皆、更紗に意識を集中しているに違いなかったが、実際に彼女の方を向いたのは私一人だけであった。

 扉を開けたものの、なかなか教室に歩みを進めようとしない更紗に痺れを切らしたのか、和泉が先に声をかけた。

「更紗」

 途端に、室内に張り詰めていたものがより細くなったような気がした。和泉の声に、更紗は少しだけ肩を揺らした。私の目には、僅かに後退したように見えた。

「更紗。何やってるんだ。早く入ってきなさい」

 和泉はクラスの担任教師である。担任としては適切な言葉選びに思えるが、私には不自然で不快なものとしか思えなかった。何をしらじらしい。


 更紗は賢い。和泉の言葉に対して、躊躇いなど見せることなく教室の中に足を踏み入れた。その態度に対して、ちらほらと微かな安堵の溜息が聞こえる。教室内のそんな空気には苛立ったが、私も安心した。今日は更紗があいつに、あの綺麗で真っ直ぐな長い髪を引っ張られて無理矢理席に着かされるようなことはされずに済みそうだ。

 最後列真ん中の自分の机に辿り着き、無事着席した更紗を横目に見ながら、和泉は授業を再開した。

 教室内の生徒が、順に教科書を読み進めていたときだった。和泉は室内を不規則に歩いていた。その途中、ある席の前で足を止めたのである。

 私の席の斜め後ろ――水無更紗の席の真ん前だった。

 彼は、右手の拳を彼女の机に振り下ろした。

「いつも言っているよな」

 和泉の常時より低い声が震えている。苛立ちに震えている。

「貧乏ゆすりはするなって。いつも俺は言っているよな」

 和泉の足は、更紗の机の脚を勢いよく蹴っていた。そればかりか、怒りにまかせて彼女の肩を掴み、椅子から乱暴に引きずり下ろした。べちん、と生々しく肌が床に打ち付けられる音と共に、更紗は和泉によって惨めに投げ出された。

 もちろん、更紗は貧乏ゆすりなんてしていない。私は知っている。いや、皆わかっていることだ。和泉だってしているなど思っていないのである。いつものことだ。

 和泉によって転ばされた更紗。床に投げ出されたまま、彼女は俯いて和泉からの見下しの視線を受けていた。その長い髪に隠れた目が、まっすぐで美しいことを知っている。更紗は、凛としていて魅力的な女の子だということを私は知っている。

当然だが、授業は中断していた。教科書を読んでいた声も自然とそこで止まっている。和泉は息を荒く吸って、吐き出すように言った。

「望月。止まってるぞ。早く続きを読みなさい」

 望月さんはびくりと全身を跳ねさせ、しどろもどろになりながら読みかけていた続きの部分を探した。えーと、えーと。繰り返してなかなか読みはじめない望月さんに、和泉は眉を寄せた。「十二行目だ」そう教えるように言った和泉は、読み進められる前に静かな声でこう囁いた。


「いいな。みんな覚えておけよ。嫌いな生徒が一人だなんて限らないんだからな」

 私は、故意に床に転ばされた哀れな更紗を見ていられなくて、和泉に視線を移した。顔は悪くないと誰かが言っていたような気がするが、私にとって和泉など更紗をつけ狙う単なる獣でしかなかった。その獣は、全く愉快でなさそうな目をしている。腹が立った。私は、きっと睨むように彼を見ていたに違いない。

――お前がなぜそんな目で更紗を見る。馬鹿にするな。わかったような視線を更紗に向けるな。

 和泉なんて下衆が玩具にしていいような安い女性ではないのだ。それが、水無更紗なのだ。




 和泉は更紗のことが嫌いなのだ、ということは当然、生徒の間では知られていることだ。彼は更紗が絡むと駄目な教師になる。更紗が関係していない事案では、意外なほど「いい教師」なのがこの和泉という男であった。

 和泉は更紗が嫌い。――この暗黙の了解を否定してかかったのは後にも先にも私だけであった。

 とはいえ、私も最初はわからなかった。和泉は私の親友を目の敵にするクズ教師。それだけの男だったのだ。あいつは。

 私たちが入学して一週間。つまり和泉元春が私たちの担任教師になって一週間経ったあたりから既に更紗は彼のターゲットだった。

 最初は不思議だったくらいだ。更紗は親友の贔屓目抜きに大人しい系統の典型的な美人で、瞳の深い黒に心を奪われる男は出身中学にも山のように存在した。彼女を好みこそすれ、嫌うような男が現れようとは。何の謂れもなく教師に苛められるような事態は、実際そうなってみても信じられなかった。


 私は和泉に憤ったし、当たり前だが憎しみを覚えるまでにもなった。……だというのに、更紗は「由岐は気にしなくていい」と言うのだった。

「先生は、お可哀想な人なのだわ」

 更紗にしては芝居がかった口調だった。ねえ、それ本気で言っているの?私は喉まで出かかった言葉を飲み込んで、無言で頷いた。更紗を信じようと思ったのだ。



 更紗は時々、休み時間にどこかに消えていく。行先は毎回教えてくれなかった。

 私が休み時間の彼女の居場所を知ったのは、偶然そこを通りかかったからにすぎなかった。更紗がふらりとどこかへ出て行ってしまい、一人で弁当を完食して暇を持て余した昼休みのこと。そこを通りかかったことは偶然だったが、「こうして歩いていればもしかしたら更紗の行先もわかるかも」という淡い期待も抱いていたので必然とも言えた。

 第二校舎一階の隅っこ。被服室前は、普段からきっとこのくらい静まりかえっているのだろうと予想できた。部屋のスリ硝子の窓は、更衣の際に便利なように備えられているけれど、私はそれが彼らの隠れ蓑に思えて仕方がなかった。

 二人の世界には、お誂え向きだと思った。

「なあ、美味しいか?」

 中から憎たらしい奴の、甘い声が聞こえた。聞いてしまったことに、私は寒気がした。

 その後も、奴は「気分は悪くないか?」「身体は痛くないか?」「冷えないか?」とうんざりするほど優しい言葉を吐き続けた。柔らかな声色はとろりと甘く空気に溶け、自分には関係のないことなのに眩暈がした。

 和泉のお相手は、それら全てにきちんと返事をしているわけではないらしい。和泉からのいたわりの言葉責めが済んでから、一言だけ発せられた。

「うん」

 透明な音色は、親友の言葉に違いなかった。

 更紗の言葉からは、信じられないことに慈しみだとか情だとかそういったものが流れていた。それは私から見れば、間違った愛だった。

――先生は、可哀想なヒト。

 彼女は確か以前そう言っていた。私は、足音を立てないように急いでその場を離れた。そこでじっとしているままだと、聞こえるはずのない二人の世界の音が漏れ聞こえてきそうだったから。更紗の真っ直ぐだけれど柔らかい髪が梳かれる音や、魅惑の黒い瞳を覆う睫毛が伏せられる音までもが。

 二人の息遣いや心音が聞こえてきそうだと思ったから。


――可哀想な更紗。


 私が思ったのは更紗のことだけだった。和泉などどうでもいい。けれど、今の更紗の世界は和泉という登場人物がいてこそ成り立つ。

 和泉は、高校の教師の癖に、小学生男子のような奴だったのだ、と私はようやく気が付いた。好きな子を苛めて振り向かせることしか考えられない哀れな大人だと。なるほど、確かに哀れだとしか言いようがない。

 けれど、それに巻き込まれた更紗はどうなる。

 毎回、皆の前で理不尽な苛めを振りかざされて傷を作っている彼女はどうなる。





 小学校に入る前のことだったから、もう十年も前のことになる。私は、その頃から更紗と一緒だった。

 ときたまあの頃のことを二人で振り返るけれど、更紗が言うことはいつも決まっていた。「私は、あの頃から身軽だったわ」

 彼女の両親は、彼女が二つのときに船の事故で他界したという。養父母は父方の叔父と叔母で、更紗は基本的に放任されていた。彼女曰く、厄介者として扱われていたわけではないらしい。更紗はうっとりと「養父母は私の意思を酌んでくれているの」なんて言うからだ。更紗は高校入学と同時に一人暮らしを始めた。それが彼女の言う「私の意思」なのだ。多分。

 彼女は枷を欲していなかった。何かに執着したり、自分の居場所を求めたり。そうした欲求が昔からとても薄かった。幼い頃から無意識にそうあろうとしていた気がする。気が向いた時にいつでも皆の前から消えようとしている節があった。

 今ならわかる。彼女のような人を、儚いという。

「ユキちゃんは、つよいねえ」

 更紗は、何をもって私を強いと言っていたのだろう。けれど、更紗が言うなら私はきっと強いのだろう。更紗よりずっと。

 誰かとの繋がりを拒む更紗。更紗は望まないだろうけれど、私は更紗の居場所を愛してあげたいと思った。彼女のためではなく、彼女の隣に居続ける自分のために。

 私は、彼女を守りたいのだ。




   ***


「先生にお話があります」

 和泉にそう切り出したのは放課後のことだった。奴は、理科準備室でコーヒーを飲んでいた。理科の教師の管理が杜撰で、本来は国語教師のこの男がこの部屋を自由に使っていることは私たちのクラスでは知られたことだった。

更紗は先に帰っているはずだ。私とも一緒でなく、この憎い和泉とも一緒でないとすると、学校にいるという選択はおそらくとらないだろうと思われた。和泉のおかげで、更紗と好き好んで親しくするような人間はこの学校には私以外いないのだ。

 そう、この獣のせいで。

「なんだ、加賀」

 和泉は人好きのする爽やかな笑顔で私を迎えた。唇を噛んで睨みつけてやると、彼の眉はぴくんと動いた。少しでも勘に障ってくれたなら幸いだ。

「わかっているでしょう。話があります。更紗のことで」

「更紗がどうした」

「どうしたもこうしたもありません」

 和泉はなかなか仮面を脱ごうとはしない。苦笑いをしながら、「加賀はおっかないなあ」なんて言っている。小学生男子とそう変わらない癖に、大人ぶって私を見てくる。

 吐き気がする。


「もう限界です。見てられません。今後一切更紗に手は出さないで」

「……納得いかないな。俺は理由もなく、一方的に更紗を叱っているわけではない」

「難癖つけて彼女に構ってもらってるだけでしょ。教師という名の権力を振りかざしてまで。みっともないったらない」

 気分が悪かった。和泉の濁った目なんて直視していられない。だから、気付かなかった。燃えるような目でこちらを見ていた彼のことを。

「いくら教師と生徒とはいえ、もっと正当なアプローチをしてみたらどうなの。更紗を傷つけて満足なの?あんたはただの子供よりたちが悪い。そう思ってみたことはないの」

「うるさい」

 次の瞬間、和泉の静かな怒りの声と共に私は整頓された理科準備室の机に倒されていた。両手首が和泉の手につかまっている。男の力は強く、私には到底抜け出せそうもなかった。

「お前に、俺と更紗の何がわかるんだ」

「わかる。少なくとも、更紗のことくらいは」

 私はずっと更紗を見てきた。和泉など、比べものにならない時間、ずっと。

 渡さない。

 ぎり、と和泉の掴んだ私の手首がまた締められた。彼の目からも、同じ訴えが聞こえた気がした。和泉も、譲る気はない。

「どうするつもり、先生」

 私は一応聞いてみた。きっと、返事など返ってこないだろう。果たして、その通りであった。

 無言を貫く和泉によって制服が暴かれていく。乱暴な手つきにも関わらず、肌に落とされる唇がやたらと優しくて泣きたくなった。そんな格好悪いこと、できやしないのだけれど。

「あは」

 声を出して笑ってしまった。そうだ、目の前のこいつは成人して見えるけれどお子様なのだ。思ったようにいかないと、こうなるのも仕方ない。予想できなかった自分のミスである。

 そんな私を見て、和泉の方がずっと泣きそうな目だったことを覚えている。




   ***


「更紗に対する和泉先生の当たりが弱くなったと思わない?」

 休み時間のことだ。ある女子グループの会話が耳に入ってきた。黄色い声が心地悪い。和泉が「更紗」と呼ぶからか、彼女を恐れているくせにクラスの大半が更紗を呼び捨てにする。私はそれも気に入らない。

「由岐のおかげでしょう、それって。彼女が仲裁してるんじゃないの。いつも更紗と一緒なの、由岐しか思いつかないし、原因になるならそれくらいしか」

 はずれだ。

 和泉は、嫌いな生徒は一人とは限らないと言っていた。あの時は件の嫌いな生徒というのは更紗のことだと私でさえ思っていた。しかし。

 赤くなった手首を押さえ、私は顔を歪めた。あいつの嫌いな生徒は、元々私一人だったのだ。更紗の唯一の味方の私。仇を見る目で彼を睨み続けた加賀由岐。和泉は、ずっと私のことを嫌っていたのだ。

 私は更紗の机を見た。今日も教室にはいない更紗はまた和泉と逢っているのだろうか。二人だけの桃源郷に酔っているのだろうか。





 それからしばらくして、更紗は妙なことを言ってきた。帰り道でのことだ。この会話はきっと今後も忘れないだろうと思う。

「北風と太陽ってあるじゃない」

 唐突な話題に私はワンテンポ反応が遅れた。その隙に更紗は言葉を紡ぎ続ける。

「北風も、それから太陽も、彼らのしたことはどちらも押し付けだったと私は思うの。旅人には旅人のペースがあるでしょう。その場にいたから勝負の対象にされた旅人さんは、気の毒ね」

 言いたいことがいまいちわからなくて私は首を傾げた。

「あの話の勝負は太陽の勝ちだったけれど、北風のことも太陽のことも、旅人さんは好きだったとしたら、あれは二人が勝負を仕掛けたことがそもそもの間違いであったとは思わない?」

 私は、じわりじわりと彼女が何を言いたいのかわかり始めた。私たちのことを言っているのだ。

 北風は和泉、太陽は私、そして旅人は更紗。

 彼女は、いつから私と和泉に気が付いたのだろう。

「じゃあ、どうすることが正解だったと更紗は思うの?」

「決まっているじゃない」

 本当に、「当然だ」という顔をして更紗は答えた。

「旅人なんて存在が、最初からいなければいいのよ」

 時間が止まった。そんなことはないのだけれど、確かにその瞬間、私の世界は固まったのだ。

 更紗はにっこり笑って手を振った。そこは、彼女の住むマンションの真ん前だった。

「じゃあね、由岐」

「待って、更紗!」

 行かないで!私はそう叫んだけれど更紗は立ち止まらなかった。きっと私は、更紗に嫌われてでも追いかけるべきだった。北風なら、強引に彼女のマントを剥がそうとする和泉ならば、そうしたかもしれない。だが、ここにいたのは私だった。臆病に更紗を包んでいただけの癖に、そのうちマントを脱いでくれるだろうと慢心していた馬鹿な太陽だけだった。



   ***


 翌日、学校へ行くともう更紗の姿はなかった。どこに行ったのか、学校は転校する気なのか、よくわからない。更紗のことをずっと見てきた、更紗のことならわかるつもりだ、と和泉に言ったのに、私は更紗のことなど何もわかっていなかった。

 昔から身軽な更紗は、とうとうなけなしの荷物を放り出してこの舞台から降りてしまったのだ。残されたのは彼女に魅せられてしまった二人の人間だけ。

 私も和泉も、二人だけの理科準備室で呆然としていた。私たちは一体何を間違えたのだろう。


 和泉は最早何も映さない瞳からぼろぼろと大粒の涙を溢していた。その姿は哀れ以外の何物でもなく、以前言っていた更紗の「先生はお可哀想な人だから」という言葉を思い出した。

 私の机の中に、更紗からの手紙が入っていた。手紙、というよりは短いメッセージで、それはこの状況にとって気が利いているのか利いていないのか判断しづらい内容だった。

 和泉は聞いているのかどうかよくわからない。それでも私は、カードを開いて内容を読み上げた。見慣れた更紗の筆跡だった。


「水無更紗は、死にました」

 カードに書かれていたことはそれだけだったけれど、私はその言葉に添えて、こう続けた。

「私たちが、殺しました」


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