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夏の思いで

作者: 霧道 歩

夏の思いで





 遠くで鳴くセミの声もその日は不快に感じなかった。蒸し暑い空気もつき抜け、ただ僕はペダルをこいでいた。滴る汗が少し気持ち悪くて喉もカラカラに乾き、それでも後ろに乗って気持ち良さそうに風を感じている彼女のために僕はつらい上り坂を必死に進んだ。

「がんばって。」

彼女のその言葉が僕のペダルをこぐ足に力を注いだ。

「おう。」

少しかすれて来た声で僕は答えた。前に姿勢を傾け、思い切りペダルを回す。今にもチェーンが外れそうだったけど、チェーンは外れずにタイヤを回してくれた。

 頂上に上り詰めると眼下には一本の下り坂と、そしてその先に青い海が拡がっていた。彼女は歓声をあげた。

「海だ・・・・・・奇麗。」

彼女の見る初めての海だった。

「捕まってろよ。」

僕は再びペダルに足をかけた。

「うん。」

彼女は僕の腰を強く掴んだ。しっかりとハンドルを握り、地面から足を離した。タイヤは勢いよく回転し、一気に坂を下った。急な下り坂だったが、僕はブレーキをかけなかった。恐怖からか僕の腰を掴む彼女の手に力が入った。

「あっ。」

彼女の声に僕は振り返った。見ると彼女の麦わら帽子が風に乗って空を舞っていた。



 波は寄せては返し彼女の足元を濡らした。冷たそうにしていた彼女も慣れて来たのか、無邪気に波と戯れていた。

 初めて見る彼女の水着姿。ワンピーススタイルの青色の水着だったけどもとても似合っていた。

 高くそびえる入道雲。光り輝く太陽。羽ばたく海鳥やカゴメ。青い空。そして永遠に続く海。この背景は彼女のためにあるのだとさえ思えた。誰よりも楽しそうにこの場にいる彼女こそが僕の絵の中心だった。

「ね、一緒に泳ごう?」

彼女からの誘いを受けて、水着を持っていない僕はTシャツのまま海へと入った。海水は冷たく、震える僕を彼女はおかしそうに笑った。


夕暮れが過ぎ、日は地平線に沈んで夜を迎えようとしていた。沈んでいく太陽を彼女は寂しそうに見つめた。

 おそらく2度と彼女とここにくる事は出来無いだろう。僕は夕日を見てそう思った。

 時刻は夕方6時30分。僕は再び彼女を乗せてペダルをこいでいた。海へと続いた下り坂は上り坂へと替っていた。だけど辛いとは感じなかった。日が沈んで気温が下がったからなのかどうかは僕には解らなかった。

「星、奇麗だな。」

背後の彼女に僕はそう言った。彼女の「え?」という声のあと

「わぁ・・・。」

という驚嘆の声が聞こえた。

「本当だ、凄い・・・。」

きっと彼女は天を仰いでいるのだろう。もう一度見ることが出来るかわからない夜空の海をその目に焼き付けているのだろう。

 このまま彼女を乗せてどこかへ連れて行きたかった。どこでもいいから遠くへ。海の向うへでも、空の果てへでも。

 上り坂は終わり、あとは病院へ続く下り坂。と、彼女が不意に肩を掴んできた。僕は自転車を停めて振り返った。彼女はいつの間にか降車して海の方を見つめていた。暗く染まった景色は海の青さも飲み込んでしまっていた。僕は彼女の隣に並んだ。

「奇麗だな、海。」

「・・・うん。」

彼女の目には今何が映っているのだろうか。

 僕は彼女の手に触れた。彼女はそっと指を絡めて来た。

 そのまま抱き締めたかった。だけどそれは叶わない夢。彼女の気持ちを僕は知らないから。



 目が覚めると僕はベッドの上に居た。見慣れた天井が僕の虚無感をいっそう掻き立てた。自分が夢を見ていたことに気付くのにも時間はかからなかった。何度も見た夢だ。

 僕は体を起こし、窓の外を見た。あれから10年近く経った今も青い空と流れる雲は変わっていない。あの海は観光地に変わってしまっただけど、あの日の夕空は変わらない。

 あれは遠い夏の思いで。二度と返ることの無い夏の思いで。だけど終わることも無い。あの海も、空も、鳥も、星空も、セミの鳴き声も彼女の落とした麦わら帽子も全部、僕を置いてどこかへ行く事は無い。

 遠い日の夏の思いで。こっちの僕が見えますか?僕は今、頑張っています。


初の短編です。

読者皆さんの想像力を頼って書いたので設定は細かくしていません。あしからず。

では読んでくださってありがとうございました。


※しばらく連載物はストップします。短編中心にいこうと思うので、応援よろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
[一言] 初めまして。情景がとても綺麗に思い浮かべられました。 “風に乗る麦わら帽子”辺りが特にお気に入りの表現です。  落ち着いた感じで物語が進みますが、彼女さん病人だったようで結ばれないのが切なか…
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