第4話 はじまりは、たった二枚のハニークッキー
馬車は夜の街道をひた走る。
車内は静かだった。ただ一つ、気まずい音を除いては。
ぐぅぅぅぅぅ……きゅるるる……。
音源は、もちろん私の隣に座るヴィンセント公爵だ。彼は腕を組み、涼しい顔で窓の外を眺めているが、そのお腹は正直に空腹を訴え続けている。
(ど、どうしよう……)
私のポケットの中には、二枚のハニークッキー。
緊張をほぐすためのお守り。侍女に「令嬢らしくありませんよ」と呆れられながらも、こっそり作って持ってきた、私のささやかな秘密。
こんな素朴なお菓子を、一国の公爵様に差し出すなんて。無礼だと思われて、馬車から放り出されてしまうかもしれない。
でも……。
ぐぅぅぅ~~~……。
あまりにも切実な音に、私の良心がちくちくと痛む。
私は意を決して、ポケットから白いハンカチの包みを取り出した。
「あ、あの……ヴィンセント様」
私の声に、公爵がゆっくりとこちらを向く。 その深い青の瞳に、訝しげな色が浮かんだ。
「なんだ」
「その……このようなもの、大変お口汚しかとは存じますが……もし、よろしければ」
私は震える手で、ハンカチを広げて彼に差し出した。現れたのは、少し不格好な、黄金色に焼かれた二枚のクッキー。
ヴィンセント公爵は最初、それを怪訝そうに見つめていた。だが、クッキーから漂うハチミツとバターの甘く香ばしい匂いを嗅ぎ取った瞬間、その凍てついた瞳が、ほんのわずかに見開かれた。
彼は無言のまま、私の手からひょいとクッキーを一枚つまみ上げる。
そして、ためらうことなく、それを一口でぱくりと口に放り込んだ。
サクッ、と軽やかな音が静かな車内に響く。
「…………!」
次の瞬間、私は確かに見た。
彼の氷のような表情が、ほんの一瞬だけ驚きに揺らいだのを。
彼は残りのクッキーもあっという間に食べ終えると、今度は私のハンカチの上に残っていた、最後の一枚にすっと手を伸ばした。
それもまた一瞬で彼の口の中に消えていく。
あまりの速さに、私はあっけにとられてしまった。
「……い、いかが、でしたでしょうか?」
恐る恐る尋ねると、ヴィンセント公爵は少しの間、何かを考えるように黙り込んだ。
そして、ぶっきらぼうに、けれどはっきりとした声で言った。
「……悪くない」
その言葉に、私はほっと胸を撫で下ろす。
「これは何だ?」
「ハチミツと、少し木の実を混ぜて焼いただけの、簡単なクッキーですわ」
「なぜ、お前がこんなものを?」
公爵の問いに、私は少し照れながら正直に答えた。
「その……わたくし、緊張するとお腹が空いてしまう質でして。お守り代わりに、こっそりと」
私の言葉に、ヴィンセント公爵は少しだけ意外そうな顔をした。
「……お前もか」
「え?」
「いや。……お前も、腹が減るのか」
どこか仲間を見つけたような、ほんの少しだけ柔らかい響きを含んだ声だった。
その声色に、私はこの恐ろしいと噂の公爵様との間に、ほんの小さな繋がりができたような気がして、少し嬉しくなった。
ヴィンセント公爵は、こほん、と一つ咳払いをすると、再び窓の外に視線を戻した。
「……領地に着いたら、すぐに何か作ってもらう」
それは命令でありながら、どこか期待に満ちた響きを持っていた。
私の作ったささやかなお菓子が、この気難しい公爵様に認められた。その事実が、婚約破棄で空っぽになっていた私の心に、ぽっと小さな温かい灯をともしてくれた。
これから始まる新しい生活は、もしかしたら、そんなに悪いものではないのかもしれない。
私はそんな淡い期待を胸に、夜の闇を駆ける馬車に、静かに身を任せるのだった。




