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第35話 氷の悪魔と、銀色の嵐

 その頃、北の国境地帯に広がる雪原では、二つの軍勢が最後の決戦の時を迎えようとしていた。


「報告! 敵本隊、谷間に陣を敷いております! 数はこちらの三倍!」


 斥候からの報告に、アシュフォード騎士団の間に緊張が走る。

 雪と岩に囲まれた狭い谷間は、守るにやすく、攻めるに難い、天然の要害。そこで待ち構える三倍の敵を打ち破るのは、至難の業だ。


 しかし、漆黒の鎧に身を包み、馬上で冷徹に戦場を見据えるヴィンセントの表情に焦りの色は一切なかった。


「……愚かな。自ら墓場を選んだか」


 彼は、静かに呟くと、傍らに控える聖獣フェンリル――その銀色の鬣を優しく撫でた。

 フェンリルは、主の意図を完全に理解したように、グルル、と低く喉を鳴らす。


「ダリウス」

「はっ!」

「お前は、騎士団の主力を率いて、谷の正面から攻めかかれ。だが、深追いはするな。目的は、敵を谷底に釘付けにすることだけだ」

「しかし、閣下! それでは、ただの消耗戦に……」

「案ずるな」


 ヴィンセントは、ダリウスの懸念を冷たく遮った。


「狼煙が上がったら、一気に畳みかけろ。……それまでは、耐えろ」


 その声には、絶対的な自信が満ちていた。

 ダリウスは、主君の策を信じ、力強く頷くと、部隊を率いて駆け出していく。


 やがて谷間に剣戟の音が響き渡り、アシュフォード騎士団と傭兵団との間で、激しい戦いの火蓋が切って落とされた。


 一方、ヴィンセントは、フェンリルと、そして選び抜かれた少数の精鋭騎士だけを率い、誰にも気づかれぬよう、険しい岩山を迂回していた。


 彼の狙いは一つ。

 敵の陣地の、さらに奥。

 谷を囲む切り立った崖の上。


「……ここだ」


 崖の上から眼下を見下ろすと、谷底で繰り広げられる激戦の様子と勝利を確信し、油断しきっている敵の本陣が手に取るように見えた。

 傭兵団の長が、下品な笑い声を上げながら、酒を煽っているのが見える。


 ヴィンセントの口元に、氷のような冷たい笑みが浮かんだ。


「……エリアーナ」


 彼は、誰に聞かせるともなく、愛しい人の名を呟く。


(見ていてくれ。これが、俺の戦い方だ)


 彼は、すっと剣を抜き、天に掲げた。


「――時は、満ちた」


 その合図と共に崖の上に潜んでいた騎士たちが、巨大な岩や丸太に結びつけていた縄を一斉に断ち切る。


 次の瞬間。


ゴゴゴゴゴゴゴゴッ……!!!


 地響きと共に崖の上の大量の雪と岩が雪崩となって、眼下の谷底へと襲いかかった。


「な、なんだぁっ!?」

「うわああああああっ!」


 人工的に引き起こされた、大規模な雪崩。

 それは、アシュフォードの厳しい自然を知り尽くしたヴィンセントだからこそ可能な、恐るべき策だった。


 敵の本陣は、一瞬にして轟音と雪煙の中に飲み込まれていく。そして、その混乱の只中へ、崖の上から銀色の嵐が舞い降りた。


「グルアアアアアアァァァッ!!」


 聖獣フェンリルの天を衝くような雄叫び。

 彼は、雪崩で崩れた斜面を駆け下り、生き残った傭兵たちを、その鋭い牙と爪で容赦なく蹂躏していく。


「今だ! 総員、突撃!!」


 崖の下からダリウス団長の鬨の声が上がる。

 正面から突撃してきたアシュフォード騎士団と背後から襲いかかる聖獣。

 そして指揮官を失い、雪崩で混乱の極みに達した傭兵団。


 もはや、勝敗は決していた。


 その地獄のような光景を崖の上から冷徹に見下ろしながら、ヴィンセントは、懐から取り出した最後のハニー・ボールを、ゆっくりと口に放り込んだ。

 甘い蜂蜜の味が乾いた口に広がる。


(……帰るか)


 愛しい料理番が温かいスープを作って待っている、あの城へ。

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