第3話 さようなら私の世界、馬車は夜を駆ける
「……料理番、ですか」
「ああ。そうだ」
私の問いに、ヴィンセント公爵は事もなげに頷く。あまりに現実離れした提案に、頭がついていかない。
目の前にいるのは、戦場で敵兵を震え上がらせるという『氷の悪魔』。そんな方が、婚約破棄されたばかりの私を、ただ「美味しそうな匂いがする」という理由だけでスカウトしている。
(どう考えても、怪しすぎるわ……)
けれど。あの嘲笑と憐れみに満ちたホールに、戻りたくない。
地味だと蔑まれ、王太子妃教育という名の窮屈な日々に、心がすり減っていたのも事実だ。
実家に帰っても、父と母に合わせる顔がない。きっと私のせいで、ハワード家の立場は悪くなるだろう。
それならば。
いっそ、このまま全く知らない世界へ行ってしまった方がいいのかもしれない。
「……分かり、ました」
震える声で、私は答える。
「行く当ては、ございません。もし、こんな私でもお役に立てるのでしたら……お供させて、いただけますでしょうか」
私がそう言うと、ヴィンセント公爵は初めて、ほんの少しだけ口の端を緩めたように見えた。
「よろしい。ならば今すぐ行くぞ」
「えっ、い、今すぐですか!?」
「当然だ。夜が明ける前に国境を越える」
公爵は私の返事を待たず、ためらいもなく私の手を取った。大きくて、少しごつごつした、騎士の手。その力強さに、私はなすすべもなく引かれていく。
「あの、実家に一度、連絡を……!」
「手紙で十分だ。俺の従者に届けさせる」
有無を言わさぬ物言いに、私はそれ以上何も言えなかった。
私たちは王宮の庭を抜け、人目を忍ぶように裏門へと向かう。そこには、アシュフォード公爵家の紋章である『氷狼』が刻まれた、黒塗りの頑丈な馬車が静かに待っていた。
護衛らしき騎士が、主の姿を認めると、無言で馬車の扉を開ける。
「乗れ」
促されるまま、私はふわりとしたドレスの裾を抱えて馬車に乗り込んだ。
中に入って驚いた。外見こそ質実剛健だったけれど、座席には柔らかなクッションが敷かれ、乗り心地は最高級のものだとすぐに分かる。
続いて乗り込んできたヴィンセント公爵が、御者に短い指示を出すと、馬車はすぐに滑るようにして動き出した。
ごとん、ごとん、と心地よい揺れを感じながら、私は窓の外を流れていく王都の景色をぼんやりと眺める。
(本当に、行っちゃうんだ……)
私が生まれ育った、きらびやかで、息苦しかった世界。
もう二度と、ここに戻ることはないだろう。
「……あの、公爵様」
沈黙に耐えきれず、私はおずおずと口を開いた。
「改めて、エリアーナ・ハワードと申します。この度は、ありがとうございます」
「ヴィンセントでいい」
「え?」
「領地ではそう呼べ。……それと、礼を言うのはまだ早い。お前が俺の腹を満たせるか、まだ分からんからな」
相変わらず、彼の興味は私の料理の腕だけのようだ。
それが逆に、少しだけ私を安心させた。
「あの、お恥ずかしながら、わたくし、本格的な厨房に立った経験はございません。お口に合うものが作れるかどうか……」
「問題ない」
ヴィンセント公爵は、私の不安をぴしゃりと遮った。
「お前からは、腹の虫が騒ぐ匂いがする。俺の勘は当たる」
絶対的な自信に満ちた言葉。
馬車に揺られていると、緊張が少しずつ解けてきたせいか、私もお腹が空いていることに気づいた。そういえば、夜会ではほとんど何も口にしていなかった。
その時、ふとドレスのポケットに入れていた小さな包みのことを思い出す。
(あ……)
それは夜会の前に侍女に隠れてこっそり作った、一口サイズのハニークッキーだった。緊張するとお腹が空いてしまう私の、ささやかなお守り。
ハンカチに包まれた、たった二枚のクッキー。
こんなものを、公爵様にお出しするなんて、あまりにも無礼だろうか。でも、この方、すごくお腹を空かせているみたいだし……。
私は、隣に座る『氷の悪魔』様の横顔をちらりと盗み見ながら、ポケットの中の小さなお守りを、そっと握りしめた。




