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第2話 氷の悪魔は、お腹が空いている

 闇夜に溶けるような、深い青の瞳。

 月明かりに照らされたその貌は、精巧な氷の彫像のように美しく、そして同じくらい冷たく感じられた。


(ヴィンセント・アシュフォード公爵……!)


 隣国が誇る最強の騎士にして、広大な辺境領地を治める若き公爵。

 戦場では悪魔のように恐れられ、社交の場では氷のように感情を見せないことから、『氷の悪魔』の異名を持つ人物。


 なぜ、そんな方がここに?


「……ご、ごきげんよう、アシュフォード公爵様」


 私は慌てて涙を拭い、淑女の礼をとる。

 こんな無様な姿を見られたなんて、恥ずかしくて顔が熱くなる。


 ヴィンセント公爵は、そんな私を値踏みするように、じっと見つめていた。

 その視線はあまりに鋭く、まるで心の中まで見透かされそうだ。


「先ほど、ホールで何かあったのか」

「い、いえ……何もございませんわ。少し夜風に当たりたかっただけです」


 嘘だ。声が震えているのが自分でもわかる。

 すると、公爵はふい、と私から視線をそらし、全く関係のないことを口にした。


「……腹が、減った」

「……はい?」


 予想外すぎる言葉に、私は思わず間抜けな声を出してしまった。聞き間違いだろうか。

 しかし、公爵はもう一度、今度ははっきりと私を見て言った。


「腹が減る。……お前から、何やら妙な匂いがする」

「におい、ですか?」


 私は自分のドレスの袖をくんくんと嗅いでみる。けれど、香油の微かな花の香りがするだけだ。

 怪訝な顔をする私を意にも介さず、公爵はすっと距離を詰めてきた。

 ひっ、と息を呑む私にかまわず、彼は私の顔のあたりに鼻を近づけ、くん、と匂いを嗅ぐような仕草をする。


「なっ、何を……!」

「……甘くて、少し香ばしい。腹の奥をくすぐるような……不思議な匂いだ。何か食べ物でも持っているのか?」

「も、持ち合わせておりませんわ! このような場所で!」


 頬が燃えるように熱い。

 いくらなんでも、淑女に対して失礼すぎる。


 私が抗議の視線を向けると、公爵はつまらなそうに私から離れた。

 そして、まるで独り言のように呟く。


「そうか。気のせいか……」


 その時だった。


ぐうぅぅぅぅぅぅぅぅぅ~~~……。


 静かなバルコニーに盛大な音が響き渡った。

 音の発生源は、言うまでもなく、目の前の氷の彫像――ヴィンセント公爵のお腹からだった。


「「…………」」


 気まずい沈黙が流れる。

 公爵は完璧な無表情を保ったまま、けれどその耳だけが、ほんのりと赤く染まっているように見えた。

 なんだか、その様子がおかしくて、婚約破棄されたばかりだというのに、私は少しだけ笑ってしまいそうになる。


(この方、もしかして……ただ、お腹が空いているだけ……?)


 『氷の悪魔』という恐ろしい異名との、あまりのギャップ。

 私がどう反応すべきか迷っていると、公爵は気を取り直したように、こほん、と一つ咳払いをした。


「……ハワード伯爵令嬢だったか」

「はい、エリアーナと申します」

「エリアーナ。お前、この国にもう居場所はないだろう」


 核心を突く言葉に、今度こそ胸がずきりと痛んだ。先ほどの、ほんの少し和んだ気持ちが消えていく。


「行く当てがないのなら、俺の領地に来い」

「…………え?」


 今、この方は何と言ったのだろう。

 あまりに突拍子のない提案に、私は言葉を失う。

 それに私の返事を待たず、ヴィンセント公爵は続ける。その深い青の瞳が、再び私を真っ直ぐに射抜いた。


「料理番が一人、辞めてな。ちょうど人手を探していた」

「……はあ」

「お前のその匂い、少し気になる。何か美味いものが作れるかもしれん」


 あまりにも自分勝手で、強引な理屈だった。

けれど、全てを失い、行く当てもなかった私にとって、その言葉は……暗闇の中で差し伸べられた、たった一本の蜘蛛の糸のように思えた。

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