第19話 王都の不穏な影と、守るべきもの
その手紙に書かれていた内容は、ヴィンセントの心を瞬時に氷点下まで凍てつかせるには、十分すぎるものだった。
『アルフォンス王太子、周辺国との関係悪化。原因は王太子の浪費と、その婚約者イザベラ嬢の横暴にあり。特に、我がアシュフォード公爵領が産出する希少鉱石の不当な要求が顕著。
また、王太子は未だエリアーナ嬢の行方を捜索中。「我が花嫁を弄んだ辺境の悪魔に、必ずや報いを」と公言している模様。王国内に不穏分子の動きあり。警戒されたし』
「……愚かな」
ヴィンセントの手の中で、手紙がくしゃりと握り潰される。
エリアーナを「地味でつまらない」と、大勢の前で辱め、捨てたのはどこの誰だ。それを今更「我が花嫁」とは。身勝手にもほどがある。
だが、問題はそこではなかった。
王太子の愚行は、今に始まったことではない。しかし、その矛先が明確にこのアシュフォード公爵領と、そしてエリアーナに向けられている。
(あいつを、危険に晒すわけにはいかない)
ヴィンセントの脳裏に、湖畔で見たエリアーナの幸せそうな笑顔が浮かぶ。
ようやく見つけた、温かい陽だまりのような存在。誰にも、何人たりとも、それを脅かすことは許さない。
◆◇◆
翌朝、私がいつものように厨房に立つと、城全体の空気が、どこか張り詰めていることに気づいた。騎士たちの往来が普段より激しく、誰もが厳しい顔つきをしている。
ヴィンセント様のお弁当を執務室に届けると、彼は既に鎧の一部を身に着け、数人の騎士たちと地図を囲んで深刻な話をしていた。
私の入室に気づくと、彼は話を中断し、私に向き直る。
その瞳は、昨日までの穏やかさが嘘のように、鋭く、冷たい光を宿していた。まるで、初めて会った夜の『氷の悪魔』のように。
「エリアーナ」
「は、はい」
「しばらくの間、城の外へ出ることを禁ずる。フェンリルの元へ行く時も、必ず護衛をつけろ」
「え……? 何か、あったのですか?」
「お前が気にする必要はない。いいな、これは命令だ」
有無を言わさぬ口調に、私は何も言い返せなかった。
ただならぬ雰囲気に、私の胸は不安でざわつく。私が何か、ご迷惑をおかけしてしまったのだろうか。それとも……。
その日から、城の警備は一層厳重になった。
騎士団は常に臨戦態勢にあり、ダリウス団長の怒号が訓練場に響き渡る。
そんな緊迫した状況の中、私にできることは一つしかなかった。
(みんな、不安なんだわ。疲れているに違いない)
いつも以上に心を込めて料理を作った。
ヴィンセント様のお弁当には、彼の好物だけでなく、疲労回復に効く食材をふんだんに盛り込んだ。
騎士団の食事には、士気を高めるための、熱々でボリューム満点の料理を。
厨房の仲間たちと、不安な顔で働くメイドたちのために、心がほっとするような、温かいスープと焼き立てのパンを。
「こんな時だからこそ、しっかり食べないとね」
私のその言葉に強張っていた厨房の仲間たちの顔が、少しだけ和らいだ。
そうだ、私にできるのは、これだけ。
けれど、これこそが、私の戦い方なのだ。
数日後の昼下がり。
私が厨房でパン生地をこねていると、ヴィンセント様がふらりと姿を現した。
ここ数日、ほとんど眠れていないのだろう。その顔には、深い疲労の色が浮かんでいる。
「……いい匂いだ」
「ヴィンセント様……! あの、今、お夜食に何か……」
「いや、いい」
彼はそう言って、私の隣に立つと、私がこねていたパン生地を興味深そうにじっと見つめた。
そして、ぽつりと、呟く。
「……お前の作るものは、いつも温かいな」
その声は、ひどく疲れていて、けれど、どこか安らぎを求めているように聞こえた。
私は小麦粉で白くなった手で、彼の鎧の硬い腕に、そっと触れた。
「大丈夫です。私が、いますから」




