第11話 聖獣の森と、遠吠えの夜
城へ帰る道中、ヴィンセント公爵はほとんど口を開かなかった。
けれど、その横顔がいつもより険しくないことに、私だけでなく、護衛の騎士たちも気づいていたに違いない。
私が厨房に戻ると、料理長をはじめ、昨日手伝ってくれた料理人たちが「どうだった!?」と駆け寄ってきた。
私がはにかみながら「喜んで、いただけたようです」と答えるか答えないか悩んでるうちに、視察に同行していた護衛騎士の一人が、興奮した様子で厨房に飛び込んできた。
「すごかったぞ、エリアーナ殿の弁当は! まるで宝石箱だ!」
彼は身振り手振りを交え、あの時のお弁当がいかに素晴らしかったか、そしてヴィンセント公爵がどれほど夢中になって食べていたかを熱弁する。
「公爵様が、食事中にあんな顔をなさるのを、俺は初めて見た……!」
その言葉に、厨房は「おおっ!」という歓声と、温かい拍手に包まれた。
皆が自分のことのように喜んでくれる。その輪の中心で、私は胸がじんと熱くなるのを感じていた。ここが、私の新しい居場所なのだと、はっきりと実感できた瞬間だった。
◇
その頃、執務室に戻ったヴィンセントは、椅子に深く身を沈め、珍しく仕事も手につかないでいた。
(……エリアーナ・ハワード)
脳裏に浮かぶのは、木箱に詰められた色とりどりの料理と、それを食べたかと尋ねるように、不安げに自分を見つめていた空色の瞳。
そして、自分が頷いた時に見せた、花が咲くような笑顔。
今まで「食事」とは、空腹を満たすための単なる作業だった。
だが、彼女の料理は違う。心まで満たしていくれているのだ。
「……ギルバート」
「はっ、ここに」
控えていた老執事に、ヴィンセントは短く命じる。
「エリアーナに正式な部屋を用意しろ。厨房に近い、日当たりの良い部屋をだ。それと、料理番としての給金を支払え。必要なものは全て揃えてやれ」
それは、彼女を単なる客人や臨時の雇い人ではなく、この城の正式な一員として、そして特別な存在として認めるという、主人からの意思表示だった。
ギルバートは心得たとばかりに、深く頭を下げた。
◇
その日の夕方、私はギルバートに案内され、新しい私室へと移ることになった。
今まで使っていた客間とは違う、温かい木のぬくもりが感じられる、こぢんまりとして、でもとても居心地のいい部屋だった。
窓からは、城の中庭と、その向こうに広がる雄大な森が一望できる。
「公爵様からです。『働きに、満足している』とのお言葉でした」
ギルバートの言葉に、私は胸がいっぱいになった。
令嬢だった頃は、誰かに与えられるのが当たり前だった。
けれど、自分の力で働き、認められ、居場所と対価を得るということが、こんなにも誇らしく、嬉しいことだとは知らなかった。
窓の外を眺めていると、ふと、森の奥にそびえる古びた一つの塔が目に入った。
その塔の周りだけ、なぜか木々が鬱蒼と茂り、他とは違う、どこか神秘的な空気が流れている。
「あそこは……?」
私の呟きに、部屋の準備を手伝ってくれていた若いメイドが少し声を潜めて答えた。
「『聖獣の森』です、エリアーナ様。このアシュフォードの地をお守りくださっている、恐ろしくも気高い聖獣様たちがおられる場所なので、公爵様の許可なく、決して近づいてはいけないんですよ」
聖獣……。
その言葉を聞いた瞬間、私の胸が、なぜか小さく高鳴った。
その夜。
新しい部屋の柔らかなベッドに横になり、私は新しい生活への期待に胸を膨らませていた。
静かな夜のしじまの中、どこか遠くから不思議な声が聞こえてくる。
アオォォーーーン……。
それは狼の遠吠えのようでありながら、もっと高く、神々しく、そしてどこか寂しさを感じさせる美しい鳴き声だった。
(今の声は……?)
私はそっと窓の外に広がる、月明かりに照らされた『聖獣の森』を見つめる。
その声が、私を呼んでいる。
そんな不思議な感覚に、私は囚われていた。




