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75.

 それは、異様なほど静かな朝だった。


 空は重たく曇り、風もなく、まるで世界が一時停止したかのような錯覚すら覚える。基地の廊下を歩く音がやけに響くのは、誰もが感じている緊張のせいかもしれなかった。


 食堂に向かう途中、俺は通信室の前で足を止めた。扉の隙間から見えた、紙を持ち茫然と佇む静奈。


 背筋に冷たいものが走った。


「おい静奈…」

「あ、あぁ透真か…」

「どうした、大丈夫か?」

「ついに来たぞ…」


 静奈の反応で、見なくても手に持つその紙に何が書いてあるのかわかってしまう。


「異世界干渉における防衛戦略、コード:オペレーション・サクリファイア」


 それはついに現実になったという合図だった。仮定の話ではなく、予想の範疇でもない。俺たちの世界は、いま確かに向こう側へ足を踏み出そうとしている。


 司令部から全員に向けての電報が発信され、内容はごく簡潔で、だが恐ろしいほどに明瞭だった。


宛先:特異災害制圧部隊 全隊員

件名:異世界干渉に関する戦略的行動の発動について


 以下の通り、対異世界敵性存在に関する戦略行動の実施を命ずる。


 近時の諸情勢、および敵性存在による複数回の次元干渉事案を受け、政府および防衛省はこれを国家規模の脅威と認定。対話および隔離による回避手段は無効であると最終判断した。よって、防衛目的による異世界への干渉作戦を段階的に展開するものとする。


 ついては、下記の通り第一段階作戦を即時発動する。


作戦名:オペレーション・サクリファイア

目的:異世界領域における敵性存在(通称:魔王)に対する戦略的干渉および行動圏制圧

実施方法:特別選抜隊による異世界転移後、現地にて戦術展開を行うものとする

発動日時:明後日 ○六○○


 本作戦は、特異災害に対する最終段階措置として実施されるものであり、任務の成否にかかわらず、作戦参加者に対する完全な帰還保障は存在しない。


 各隊員におかれては、国家および人類社会の存続を賭けた作戦であることを深く認識し、心構えをもって当該任務に備えられたい。


 以上


※本命令は極秘指定とし、無関係の部外者への口外を厳禁する。違反者には厳正な処分が科される。


 文字だけで構成されたその電報は、読む者の心を一瞬で凍らせる冷たさを持っていた。


 俺は静奈と顔を見合わせた。彼女の表情は、ひどく静かだった。ただその目の奥には、あの日と同じ震えがあった。


「来たな…」

「……あぁ」


 俺は小さく頷いた。


 もう逃げ場はない。どこかでそれを分かっていた。


 でも、本当にそのときが来てしまうと、怖い、なんてもんじゃない。心が締め付けられるような、体の奥が冷えていくような感覚が全身を包んでいた。


「やるしかないな」


 静奈が短く言った。強がっているわけじゃない。これは、覚悟の声だった。


 俺たちは目をそらさなかった。言葉を交わさずとも、互いの存在だけで、かろうじて自分を支えていた。


 こうして、世界が静かに終わりを告げる準備を始めたその日、俺たちの戦いもまた、否応なく最終局面へと足を踏み入れたのだった。


 その日の昼前、緊急通信の招集命令が出された。集合先は、第三管制区。昔は大規模作戦時に使われていた極秘回線を備えた統合司令室だ。


 俺と静奈は無言のままそこへ向かあ、スクリーンに御影隊長の姿が映し出される。


 その顔に、いつもの柔らかな冗談も、わずかな皮肉もなかった。ただ、まっすぐにこちらを見つめる目だけが、今までにない強さを帯びていた。


「よく聞け」


 短く、鋭く、その声が響く。


「ついに命令が下った。扉を使った侵攻作戦を発動する。正式名称:対異世界戦略行動・第一段階作戦オペレーション・サクリファイア。作戦内容は以下の通りだ」


 スクリーンに地図と作戦概要が展開された。


「目的は、次元干渉の発生源である異世界領域に直接転移し、敵性存在の前線拠点を制圧・浄化することだ」


 こちらの反応を伺いながら、御影は言葉を続ける。


「転移後、先行部隊は半径500m以内を制圧し、橋頭堡(きょうとうほ)を設置する。その後、順次各部隊が投入され、拠点の展開と敵性存在の掃討を進める。任務の主眼は、魔王圏と呼ばれる魔力高密度領域への進路確保だ」


 静奈が、隣で小さく息を飲んだ。


「各班には後ほど、作戦の詳細が個別に通達される。だが共通して伝えておく。この作戦において、確実な帰還は保証されない。だからこそ、俺は言っておきたい」


 御影の声が、わずかに揺れた。


「君たちは、ここまで来た。戦って、学んで、失って、それでも歩き続けた。国家が、社会が、無数の命が、今や君たちに懸けている。…だが、それ以上に…」


 映像越しに、御影はほんの一瞬、穏やかな目をした。


「……お前たちは、俺にとって誇れる仲間だ」


 その言葉が、心に静かに、けれど重く届いた。


「出発は明後日。0600時、転移班から順次展開。準備に与えられた猶予は、これが最後だ。体を、武器を、そして心を整えろ。異世界は、もう目の前にある。以上だ」


 通信は切れた。


 しん、と音が止んだような沈黙が場を包んだ。誰もが言葉を探し、飲み込んでいた。


 俺は、ふと隣を見る。


 静奈が小さく頷いた。今度は、顔に迷いはなかった。


「…この戦いが、日本を平和にするための第一歩だな」


 その時、俺もまたようやく腹を括れた気がした。


 世界の理すら捻じ曲げる災厄の向こうへ、俺たちは、踏み出す。


 翌日。


 個別で通達された詳細には、俺と静奈、そしてもう一人の索敵要員遊撃隊とした作戦が行われる文書が届いた。


【任務名称】

異世界転移作戦「安全確保・展開・殲滅」フェイズにおける遊撃戦闘任務


【所属区分】

第一戦術遊撃部隊

隊長代理扱い(対魔戦経験および召喚能力を考慮)


【任務概要】


■第1段階:安全確保

目的:転移後、扉周辺五百メートル以内の敵性存在を排除し、結界構築部隊の安全確保を行う。


任務内容:

 ・先行部隊として速やかに展開、機動掃討および潜伏個体の排除

 ・魔力・幻術を用いた偵察支援および注意喚起行動。


■第2段階:前線拠点の確保と展開

目的:半径二キロメートル圏内の敵性巡回圏の特定、および機動戦の支援。

任務内容:

 ・高機動戦闘を活かし、敵勢力の先制排除。

 ・短期哨戒および地形・魔力異常の報告。

 ・遭遇戦発生時は即時交戦、殲滅を優先。


■第3段階:本格侵攻および敵拠点殲滅

目的:魔王拠点に対する機動突入作戦への参加。

任務内容:

 ・本隊とは別経路からの浸透戦術を主導。

 ・魔術兵器展開地点の確保および敵主核の撃破支援。

 ・魔王核の確認後、召喚術を用いた掃討補助を行う。


【注意事項】

・魔力干渉による通信障害が想定される。隊員間の直接連携を重視せよ。

・敵は高位魔性存在を含む。必要とあれば戦術的撤退も許可される。


以上、任務の成功と無事なる帰還を期待する。


 それを確認した俺たちは荷物をまとめ、武器と装備を確認し、必要最低限の食糧と補給物資を整える。そのすべてが、いやに静かで、機械的な作業に感じられた。まるで、心だけが置き去りになってしまったかのようだった。


 静奈と交わす言葉は、ついになかった。


 視線が重なれば、軽く頷く。それだけで充分だった。というより、言葉にすれば、何かが崩れてしまいそうだった。


 整備室で刀を手入れしているときも、沈黙の中で聞こえるのは、金属の音と呼吸だけ。普段なら雑談の一つも交わす時間なのに、それができないのは、きっとお互いに、心の奥底で何かを抑えていたからだ。


 翌朝、俺たちは部隊車両に乗り込み、転移ポイントとなる山梨の標高の高い施設へと向かった。かつては気象観測や通信に使われていた高地の施設は、いまや異世界との接点を管理するための中継地になっていた。


 移動の間も、会話はなかった。誰もが、それぞれの中に言葉を閉じ込めていた。


 到着後の一日は、ゆっくりと時間が流れた。


 標高のせいか、空気はひんやりとしていた。雲は低く、夕暮れになると霧が山肌を包んでいった。異世界への扉は、施設の奥にひっそりと封印されていた。


 誰もが休むべき時間だった。


 だが、深く眠れた者はほとんどいなかっただろう。


 俺もまた、ベッドに横たわりながら、天井を見つめていた。部屋の片隅では静奈が背中を向けたまま、毛布にくるまっていた。その肩が、小さく動いている。寝返りか、それとも震えているのかはわからない。


 何も言わなかった。ただ、隣にいる。それだけで、いいと思った。


 そして運命の朝が来た。


 作戦開始時刻:○六○○。


 まだ空は暗い。山の上は曇天が広がり、夜とも朝ともつかない色に染まっていた。


 寒さのせいか、それとも緊張のせいか、手のひらがじっとりと汗ばんでいた。息を吐けば白く、鼓動だけが、耳の奥でうるさく響いていた。


 隊服を装着し、最終確認を終え、俺たちは施設の地下にある扉の前に立った。


 そこだけ空気が異質で、ぼんやりと青紫の光が揺れている。自然法則がねじ曲げられ、空間そのものが裂けたような、禍々しくも神秘的な存在。


 常に開かれたその隙間の奥からは、見ているだけで、皮膚の奥に何かが染み込んでくるような感覚に囚われる。


 誰もが、張り詰めた空気を纏っていた。


 心音すら聞こえるような静けさ。かすかな足音だけが、床を叩く。全員が各自の持ち場に立ち、呼吸を整える。口に出す言葉もない。口にすれば、震えてしまいそうだった。


 隣を見ると、静奈が静かに目を閉じ、唇を噛んでいた。


 それでも、彼女の手は震えていなかった。確かな覚悟が、その姿勢に宿っていた。


 俺は刀の柄に手を添え、見つめる。


 あと数分で、すべてが始まる。


 「魔王」という存在がいる世界へ。こちらの常識も、戦術も、きっと通じない場所へ。


 誰かが小さく息を吸った音が聞こえた。


 その瞬間。異世界への扉が、こちらを手招きする様に開いた様に見えた。


 いま、俺たちはこの世界の代表として、全く別の現実へと踏み出す。


 恐怖と覚悟を、同時に胸に抱えながら。




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