74.
少しだけ息をついてから、二人の教官を見つめた。彼の目には決意が宿っていたが、その奥にはまだ迷いが残っていることを隠しきれなかった。
手のひらを軽く握りしめた。目の前で頭を下げた教官たちに対して、改めてその責任の重さがのしかかるのを感じた。
「正直自信なんかないです。でも私たちなら、きっと何かできるはずです。訓練して、準備を整えて、行くべき場所に行く。今までもそうやって乗り越えてきました」
静奈のことを思い出すと、胸が熱くなる。彼女はあの日からずっと、どんな時も俺の支えとなってくれていた。彼女と一緒なら、どんな困難も乗り越えられる気がした。
その気持ちが、少しずつ心の中で強くなっていった。
「だから、オペレーション・サクリファイア。私たち二人で、どんな形でもやり遂げます」
ゆっくりと立ち上がると、決意の表情で二人の教官を見た。
榊原教官は深く息をつき、静かな声で言った。
「ありがとう、天ヶ瀬。お前が言ってくれた通りだ。我々もお前と静奈があの異世界でどんな戦いを繰り広げるのか、しっかりと支えていく」
無駄に広い基地内を進み、俺は遂に鳥取にある特異災害制圧部隊の拠点へと帰還した。
数時間前の取調べの重苦しい空気を背に、再び軍服に袖を通した俺は、まるで新たな任務へと呼び出されるかのような、どこか冷静な面持ちになっていた。
玄関ホールに入ると、すぐに待っていたのは、落ち着かない様子で左右にウロウロする静奈の姿だった。俺が近づくと、彼女の頬を伝う涙がはっと一筋流れ、そして次の瞬間、彼女は両腕を大きく広げながら駆け寄ってきた。
「透真…!」
「わっ、静奈…?」
静奈は俺をそっと抱きしめ、その温もりを確かめた。長い間、遠く離れていた日々の痛みや恐怖、そして失われた時間が、一瞬にして胸を焦がす。
「馬鹿野郎!急にいなくなりながって…!」
「静奈、ごめん……」
彼女は涙をぬぐいながら、ぎこちない笑みを見せた。しばらくの無言の抱擁の後、照れた顔で俺を突き放す。
「わ、わりぃ。ちょっと、感情的になっちまった…」
「いやいい…」
「今までどこにいたんだ?」
「それが….」
あまりにも衝撃的な事実だ、言うべきか迷ったが、もしこれから先同じ様なことが起こった時のために共有しておくことにした。
「俺が研修生時代に教官だった、志田っていうやつに捉えられていたんだ…。そこで、人体実験を受けた…」
「志田ぁ?あのくそまじめそうな教官か?」
「知ってるの?」
静奈の顔には、先ほどでとは変わり、怒りの表情が浮かんでいた。
「あたしが研修生の時もいたからな…。くそが、ぶち殺してやる」
「だめだめ。あいつはもう捕まってるし、そのうち然るべき罰を受けるよ」
人体実験を受けてなお、怒る様子も恐怖する様子も見せない俺は今、静奈からみてどう映っているのか、想像するだけで怖くなり、慌てて話を変えた。
「ところで、オペレーション・サクリファイアの件、聞いているか?」
その言葉に、静奈は一瞬驚いたように目を見開いた。
「あぁ、聞いてるよ」
そう答えた静奈の肩は震えていた。
「はは、柄にもなくぶるっちまって、恥ずかしいな」
「異世界に行くという事は、魔王と対峙するって事だ…。俺も…考えただけで、震えてくるよ…」
静奈は唇を噛みながら、何かを押し殺すように目を伏せた。だがすぐに、いつものように強気な笑みを作って顔を上げる。
「また無理な命令だぜ。震えてる暇はねぇな」
その言葉が、胸に染みた。
魔王。あの存在に立ち向かうなんて、正直、恐怖で気が狂いそうだ。それでも、目の前の静奈が、俺と共に立ち向かおうとしている。それが、何よりも心強かった。
「この震えは、魔王に対する正しい恐怖だ。この恐怖があるからこそ、俺たちは魔王と戦うことができる」
手のひらを見つめる。あの青い炎が、いまも自分の中で燃えている。恐怖の炎と、意志の炎。その両方が交じり合って、俺を突き動かしていた。
「準備を始めよう。今までみたいに、いや、今まで以上にしっかりと」
「おう。あたしも一から鍛え直すつもりだ。もう、ちょっとやそっとじゃ負けねえようにな」
二人で歩き出す。訓練場へと向かう足取りは、決して軽くはなかったが、確かに前へと進んでいた。
訓練場には、既に夕焼けが差し込み始めていた。茜色に染まった空の下、俺と静奈は無言で武器を構えた。始まりはいつも、ここからだった。
「じゃあ、手合わせするか。俺がどれだけ鈍ったか、見てくれよ」
「もちろん。あの時負けた仕返しをさせてもらうよ」
静奈が大剣を構え、雷の気配がわずかに走る。
俺も刀を抜き、静かに呼吸を整えた。
恐怖は、今も胸にある。だけど、それと共にある希望と、誰かと共に立ち向かえる勇気が、俺たちの足を止めなかった。
その日を境に、俺たちの日々は変わり始めた。
訓練は以前と変わらず続いていた。けれど、その中身は明らかに違っていた。ただの反復ではない。技を磨き、動きを研ぎ澄まし、想定される最悪の状況を常に意識した実戦形式。それはまるで、本当に明日死ぬと知っている者たちのような、静かな焦燥と緊張に包まれていた。
そして、日常の中にも変化が現れ始めた。
ある日の夕方、俺は無意識に刀の手入れをしていた。訓練の後でもなく、出撃予定があるわけでもない。ただ、静奈と話していたはずの手が勝手に柄を外し、刃の細部を布でなぞっていた。
「はぁ、またやってる」
静奈が苦笑混じりに言う。見れば、彼女も大剣の刃を磨いている。雷を纏ったあの刃は、少しの歪みでも制御に狂いが生じるため、扱いが繊細だ。だが、以前の彼女なら訓練以外でここまで神経質に手入れすることはなかった。
それに気づいて、俺はようやく笑った。
「癖になってんだな、これ…」
「あー、多分な。何かしてないと、落ち着かないよな?」
雷の気配が、かすかに静奈の手元に走った。それは、まるで彼女の不安が形を持ったような微弱な揺れだった。
そして、それは日常の中にも現れ始めた。
ある日の食堂。以前なら訓練後の昼食は、静奈とたわいもない話で笑い合う時間だった。だが今、俺たちは黙ってスプーンを動かし、時折目を合わせては、何も言葉を交わさずに視線を落とす。
別に仲が悪くなったわけじゃない。ただ、話す言葉が見つからないのだ。
次に口を開けば、それが最後の会話になってしまうかもしれない。そんな空気が、喉の奥を塞ぐ。
「…ごはん、冷めるよ」
静奈がぽつりと呟いた。俺は頷くだけで、言葉を返せなかった。
そしていつか、本当に魔王と対峙するその瞬間が訪れた時。俺たちの中にあるこの静かな日常が、最も重たい武器になるのかもしれないと、そう思った。
明日もまた、訓練がある。
何も変わらないようでいて、少しずつ確実に、俺たちは“そこ”に向かっている。




