69.知らない天井
目が覚めて一番最初に視界に映ったのは、知らない天井だった。
ぼやけた光が、鈍い鉄のような色をした板張りの天井をかすめている。
俺は目を瞬かせた。身体を起こそうとしたが、動かない。
腕も、脚も、胴体も、何かに固定されていた。冷たく硬い金属の感触。革ベルトか? いや、もっと締めつけが強い。
目だけを動かして、周囲を確認する。壁は金属製、塗装が剥げていて、ところどころ錆が浮いている。湿った匂いが鼻を突いた。誰かの吐いた息のような、生臭い空気。
視界の端、左側に見えたのは――銀に光る手術器具の並んだトレイ。
メス、ピンセット、鉗子、注射器。それらが几帳面に並べられ、無機質な整然さを放っていた。
「っ!」
心臓が跳ねた。
高校時代、深夜に見ていたB級のホラー映画。こういう場面のあとには、必ずろくでもないことが起きていた。目覚めたら手術台。逃げようにも拘束。次に来るのは、解剖か、人体実験か。
(……落ち着け、落ち着け。あれはフィクションだ)
そう言い聞かせながら、脱出を試みる。足首を、腕を、指先を動かそうとする。が、びくとも動かない。筋肉に力は入るのに、固定具の方が一枚上手だった。
「あぉいぃっ、!?」
魔術を発動しようと、蒼火一閃の詠唱を試みたが、口にも何か噛ませられていることに気づく。
ならばと、胸の内で詠唱を始める。だが、魔力が、流れない。内から燃え上がるはずの蒼い炎が、何かに遮られたように、反応しない。
焦りが、喉の奥にひっかかる。感覚としては、魔力を吸い取られているようなものだった。身体の中を流れるはずのそれが、どこにもない。空っぽだ。
魔術が使えないということは、燈華も日向丸も呼び出さない。
心音が跳ね上がる。呼吸が乱れる。動けない。魔術も使えない。ここがどこかもわからない。
まるで、ゆっくりと処理されるのを待っている肉体。
(燈華…燈華っ!日向丸!ノワ!!ラーヴェン!ヴァル=トリス!!)
呼びかけても誰も反応しない、誰かいないのか。誰でもいい。ここから出さないと。
(動け……っ)
無理矢理、身体に力を込める。だが、革のような拘束具はびくともせず、ただ皮膚が軋む音だけが耳に残る。
部屋は静かだった。どこからか、水が滴る音がしていた。
そのリズムが妙に規則的で妙に、気味が悪い。
俺はただ、目だけを動かして、次に起こる何かを、待つことしかできなかった。
(考えろ……落ち着いて、今できることを探せ)
焦りを飲み込み、意識をできるだけ冷静に保つ。呼吸を整えようとしたが、鼻腔の奥に残る金属と血の混じったような臭いが、神経を逆撫でする。
(まず、ここがどこかを――)
視界の情報は少ない。天井、壁、器具、そして……天井の隅、かすかに揺れる光。カメラか?いや、違う。光の揺れ方が不自然だ。配線か。細い導線のようなものが天井を這っている。古い建材の割に、電気系統は生きている。
(地下、あるいは施設内の閉鎖区画か?)
外の光は一切ない。風の音も、虫の声も、遠くを通る車の振動も何も聞こえない。完全に遮断された空間。
ポケットに手を伸ばそうにも、身体は微動だにしない。装備も何も身につけていない。制服どころか、インナーすら脱がされている感触。
(外部への通信は不可能だ)
助けを呼ぶ術がない。誰にも、自分の声すら届かない。この現状を冷静に認識した瞬間、喉の奥から嫌な音が出そうになるのを噛み殺す。
(なぜ……俺が、こんな場所に)
記憶を掘り返す。最後に覚えているのは、コンビニの帰り道。
(そうだ、何かに襲われた。見えない何か……)
思い出すのは、異様な静けさと、その直後に走った激しい衝撃。意識が飛ぶ直前、それは存在していたが影も形も見えなかった。
(監視カメラに映らない失踪事件と関係が?)
嫌な仮説が頭をよぎる。記録保全課で見た記録映像。あれと同じ現象なら、この場所は、連れ去られた人間たちが消える終着点のひとつ。
静奈の顔が浮かぶ。あいつなら、コンビニから帰らない俺の異変に気づくなはずだ。
(だめだ、それまで待ってるわけにはいかない。何か、何か糸口を)
何もない。身体も、魔術も、燈華や日向丸さえも今は呼べない。せめて、言葉が発せられれば。
だが口には硬い樹脂のような器具が噛まされている。声は出せない。歯も舌も自由が利かない。発声はもちろん、詠唱にも影響する。
どこかで、小さなカチリという音がした。ドアが開く前の、機械的な解錠音。
背筋が凍った。身体は汗ばみ、喉が乾ききっているのに、呼吸だけが速くなる。
やがて、ギィ……と鈍く重たい軋み音を立てて、鉄の扉がわずかに開いた。
足音が響く。金属床を踏む、規則正しい革靴の音。
姿を現したのはまさかの人物、志田教官だった。
研修生時代、榊原教官の横に控えていた堅物の教官。いつも黒縁の眼鏡をかけて、真っ直ぐな背筋で教室に現れた、真面目一辺倒で無愛想な男。
その志田が、今、目の前にいる。白衣を着て、片手に何かのファイルを持ち、まるでここが自宅であるかのように、のんびりと歩いてくる。
そして、穏やかな笑みを浮かべたまま、口を開いた。
「やあ、久しぶりだね。天ヶ瀬くん」
その声は、あの頃と何も変わっていない。けれど、状況があまりに異常すぎて、耳に届いたその一言が、まるで悪夢の演出に思えた。
志田は俺の反応など意に介さず、部屋を見回しながら続ける。
「ここ、ちょっと湿っぽいだろ?換気がうまくいかなくてね。前に来たとき、どうにかしようとしたんだけど上手くいかなくてね」
雑談だ。まるで廊下ですれ違った旧友に向けるような、ありふれた世間話。
俺の状況。拘束され、魔力を奪われ、声も出せず、動くこともできないことについては一言も触れない。
その事実が、逆に冷たい恐怖を増幅させる。
(なぜ、志田教官が…こんな場所に)
思考が追いつかない。善悪の枠に忠実だった彼が、なぜ俺を、いや、こんな施設に関わっているのか。
志田はトレイのそばに立ち、銀色のピンセットを手に取る。
「ふふ、怖がらないでくれ。まだ何もしないよ。これはただの癖みたいなもんでね。手元に器具があると、つい何か触ってしまう」
そう言って、ピンセットを指で触りながら椅子に腰を下ろす。俺の視線の届く場所。だが、それでも彼は俺を「患者」や「実験体」として扱う様子は見せず、あくまで旧知の後輩と語らうかのような雰囲気を保ったままだ。
「さて。どうして君がここにいるのか、気になってるだろう?」
志田は、ピンセットをトレイに戻しながら静かに続けた。
「ずっとね、僕は魔法とは異なる力について調べてたんだよ。魔法は人類が築き上げた美しい技術だと思ってる。でもね…魔法があるならその他の異能もあるはずだよね?」
彼の口調はあくまでも穏やかで、まるで学会のプレゼンでもしているかのようだった。
「そんな中で、ある時、君を見かけた。初めて見た瞬間、背筋がゾクッとしたよ。魔法じゃない。もっと根源的で、かつ、混じり気のない何かだった。君が魔術を使った時の話だよ。覚えてるかい? 」
思い返す。誰にも見られないように一瞬だけ発動した魔術。まだ覚えていたのか。
「でもね、研修はたったの三ヶ月だ。僕も講義や業務で手一杯だったし、君に深く関わるには短すぎた。残念だったよ。ずっと、君のことが気になって仕方なかった」
志田は、語ることそれ自体を楽しむように、机の端を指で軽く叩いた。
「で、諦めかけてた頃さ。あの戦闘映像を見た。エルグ=デザイアとやり合った時の、君の動き……そして、あの力」
そこで一拍、声の調子が変わる。わずかに、熱を帯びていた。
「確信したんだ。あれは間違いなく異能。君の中には人類がまだ知らない法則が宿っている。だから僕は、こうして君を迎えに来たんだよ」
志田は、白衣の胸ポケットからペンを取り出し、ファイルを開いた。
「さて。これからしばらく、いくつかの検査をしていく。魔力を封じているのはそのためだ。気分はよくないかもしれないけど、安全のためだから、どうか我慢してくれ。目的は君を壊すことじゃない。君の中の真実を、解き明かすことなんだ」
志田教官は、俺をただの研究対象として扱っている。それが、かつての日常を共に過ごした教官であるという事実が、さらにこの場の狂気を深める。
「……まるで、昔話をするみたいに語ったけど。僕にとっては、これは夢の続きみたいなものでね。ようやく、スタート地点に立てた気分だよ」
そして彼は、柔らかな声で告げた。
「それじゃあ天ヶ瀬くん。始めようか、研究を」
部屋の空気が変わった。
次に彼が手にする器具が何であれ、それが俺の自由を奪い続ける象徴であることだけは、間違いなかった。




