66.prototype
地面に描かれた魔術紋から、まるで霧が滲み出すように白く淡い帳が立ち上がる。これはただの視覚現象ではない。世界の認識そのものを覆す、幻の幕。
それは白でも灰でもない、透明に近い濁りだった。見る者の認識そのものを攪拌する、曖昧で柔らかな幻霧。
無垢の帳が展開された刹那、エルグ=デザイアの挙動が明確に鈍る。
「識」が狂った。認識に齟齬が生じた。目で見たものが信じられない。感じた位置に何もない。知覚の軸が根底から揺さぶられる。
エルグ=デザイアの脚部が地面を踏み損ね、重い身体がよろける。
今しかない。
「祟り宿りし蒼火よ、我が怒りに応えよ。蒼火一閃」
鋭く呟き、刀を逆手に構える。柄から噴き出すように青い炎が立ち上がり、刃全体を灼くように包み込む。視界の端で、燈華の刀も同じように朱に輝く。
俺は瞬時になった魔力を何重にも、筋肉に沿わせていく。繊維が軋むほどに収束した魔力が全身を巡る。
「ここで、終わらせるッ!!」
声と同時に地を蹴る。視界がぶれる。世界が流線に変わる。
右から俺、左から燈華。二人は波のように動き、渦のように絡む。あらゆる視認と防御をかいくぐる、幻域の揺らぎがその背を押す。
一撃目。俺の蒼刃がエルグ=デザイアの肩口を深々と抉る。焼け焦げる外殻から、黒い瘴気が弾け飛ぶ。
二撃目、燈華の斬撃がそこへ繋ぐように滑り込む。敵がよろめく前に、彼女は身体を沈めて脚部へと刀を滑らせた。精密な軌道、緩みなく。
「スイッチ!!」
「了解っ!」
呼吸ひとつで、左右が入れ替わる。幻域の霧が俺たちの動きに合わせて揺らぎ、敵の視認を遮る。
三撃目。背中に回り込んだ俺が、脊柱の接続部へ蒼火を叩き込む。刃が滑り、喰い込み、内部を焦がす。
反撃の気配を察知した瞬間には、燈華が俺の肩を蹴って跳び、エルグ=デザイアの頭上か刀を叩き込んでいた。
戦場のすべてが加速する。
連携はもはや会話すら不要。視線と呼吸と気配だけで、互いの位置を補完し合う。
「白燐ノ祟火ッ!」
燈華の刃から白い炎が噴き出す。幻と実が交錯する炎、実体を伴った幻術の斬撃が、デザイアの胸部を引き裂いた。
直後、俺も飛び込む。肩から突き刺すように斬り上げる。蒼火一閃が残した炎の尾が、光のように空を舞う。
敵がよろけ、声なき咆哮を上げる。口元の穴がまた開きかけ――その前に、燈華が叫ぶ。
「識奪の幻刃!!」
その一撃で、敵の視界が潰れた。幻覚と現実の境界が崩れ、エルグ=デザイアの認識が完全に崩壊する。
「これでッ!」
俺と燈華が、交差するように飛び抜ける。背中合わせに、二人の刀が最後の一閃を振るう。
ズ、ンッ。
重い音。裂けるような魔力の呻き。そして、全てが沈黙した。
エルグ=デザイアの外殻が、崩れるように瓦解し始めた。
俺たちは、静かに着地する。呼吸が荒い。身体が悲鳴を上げている。
だが、その中央に立ち尽くす黒水晶の核が、完全に砕けた瞬間、全ての力が失われたように、風が止んだ。
「……仕留め、た?」
「えぇ、終わりましたよ。主殿」
燈華が、小さく笑った。
耳につけたインカムから御影隊長の大きな声が流れる。
『よくやったっ!よくやったぞ天ヶ瀬!!』
『えぇ…なんとか、やりました…』
周囲からは割れんばかりの歓声が聞こえる。
隊員は喜びに満ちた表情を浮かべる者、安堵で膝から崩れ落ちる者、死んだ仲間を思い涙を流す者。
俺も荒い呼吸を整え、崩れ落ちたエルグ=デザイアの残骸を見つめた。風が凪いだように静まり返る戦場。幻域は徐々に霧散し、現実の光景が戻りつつある。白く漂っていた無垢の帳が消えていくにつれ、歪んでいた感覚がまるで夢から覚めるように戻ってくる。
崩れたエルグ=デザイアの外殻のそばに、何かが転がっていた。
煤けた地面の上、うっすらと霧に覆われながら、黒く滑らかな繭の残骸が、静かに横たわっていた。
「……これは」
俺は歩み寄り、しゃがみ込む。手を伸ばして、瓦解した繭の側面を覗き込む。
そこには、誰かが刻んだ、銀の刻印が埋め込まれていた。
《Prototype-03》
銀光の文字が、微かに明滅している。炎でも魔術でもない。これは、工学的な光だ。
「…プロトタイプ?」
呟いたその響きが、自分でもぞっとするほど生々しく感じた。
魔物じゃない。何かの試作品だ。
俺は無意識のうちにポケットから携帯端末を取り出し、記録用カメラを起動する。軽く画角を調整し、数枚シャッターを切った。何がどう繋がっていくのか、今は分からないが――これは残しておかねばならない。そう、直感が告げていた。
「また、ヤバいもんに触っちまったか…?」
口の中で呟く。勝った安堵と達成感に水を差すように、冷たい現実がじわじわと心に染みてくる。
遠くから、歓声が上がっていた。隊の面々がこちらに駆け寄ってくる。
「天ヶ瀬さん!!すげえっすよ!マジであれ倒したんすね!?」
「よくやってくれた!お前がいなきゃ今ごろ全滅だったぞ!」
第一突撃小隊の彼らは口々に礼を述べ、俺の肩を叩き、手を差し出してきた。
俺は軽く手を上げて応える。気持ちは分かるし、俺もやり遂げたとは思っている。けれど、心の奥に刺さった“試作品”の文字が、どうしても晴れなかった。
「…帰るか」
俺は繭に背を向け、仲間たちと共に軍用車へと向かった。エンジンが低く唸り、揺れながら動き出す。
車内は騒がしく、誰もが上機嫌で、さっきまでの重苦しい空気は嘘のように、仲間たちは一様に晴れやかな顔をしていた。
窓の外には、沈みかけた夕陽。戦いの余韻と、ほんの少しの誇らしさを胸に抱きながら、俺は静かに目を閉じた。
この一日は、間違いなく歴史に刻まれる。だがそれ以上に、自分たちの絆と力が本物だと証明された。
だが俺は、窓の外に過ぎていく戦場跡を見つめたまま、小さく息を吐く。
Prototype-03
あれが三番目なら、一体、一番と二番は、どこに。そして、「次」はもう産まれているのか?
胸の奥で、得体の知れない予感が静かに火を灯していた。
基地に戻ると、空は既に薄曇りの夜を迎えようとしていた。残骸に覆われた大地の代わりに、ここには整備されたアスファルトと、規則正しく並ぶ鉄骨の構造体。
そして、その中央にある医療棟。静奈が眠る部屋がある。その場所へ、俺はまっすぐに歩いた。
誰かの視線や声がかけられても、いまは返す余裕がなかった。足音だけが響く無機質な廊下。その先に、安らかな時間が、いや、願わくば、再びいつも通りの彼女がいることをただ、それだけを信じて、扉の前に立つ。
深呼吸。扉をそっと押し開けると、病室の空気が肌に触れた。静かで、柔らかく、機械の音だけが律動している。
そして、その中央のベッドに彼女はいた。
「静奈……」
瞼が、動いた。呼吸が、浅く震えた。まるで、夢から這い戻るように。
ゆっくりと開いた瞳が、こちらを捉える。茫然とした色が、少しずつ、現実を取り戻していく。
「……と、うま……?」
その言葉が、喉の奥から、掠れるように紡がれた瞬間。何かが堰を切ったように、胸の奥が熱くなった。
俺は、一歩、そしてもう一歩、彼女の傍に駆け寄った。
「静奈…っ、ああ……よかった……!」
気づけば、俺は彼女の手を握っていた。細くて、冷たくて、それでも確かに温もりがあった。その現実が、何よりの救いだった。
目の前の命が、生きている。戻ってきてくれた。その事実が、俺の心の奥を震わせた。
涙が滲んで、視界が揺れる。誰にも見られたくない、けど、もうどうでもよかった。
「本当に……良かった……」
俺の声は震えていた。彼女の指先が、弱々しくも俺の指を返す。
「わり、どじったわ」
いつも通りのおちゃらけたそのセリフが、絞り出すのもやっとかと思われるほどに掠れた声に胸が痛くなる。
答えようとした言葉は声にならず、喉の奥でつかえてしまう。だから、ただもう一度、手を握りしめた。
「……ありがとう。帰ってきてくれて……ありがとう」
ようやくそれだけを伝えると、静奈はかすかに微笑んだ。まるで、やっと悪夢が終わったと言わんばかりに。
その微笑みが、何よりも救いだった。