65.黒煙の咆哮
魔力断絶砲が命中した瞬間、エルグ=デザイアの全身から黒蒸気が噴き上がる。咆哮が空を引き裂き、膨れ上がっていた魔力が一気に断ち切られた。
だが同時に
「ヴァル=トリスが……っ!」
魔力断絶砲の影響を受け、ヴァル=トリスが光の粒子となって消える。召喚が解除されたのだ。
次の瞬間、俺の身体は、支えを失ったまま空中に投げ出された。
重力が襲いかかるり自由落下を開始し、体験したことのない浮遊感が体を襲う。
冷たい風圧が顔を叩き、耳元を裂くように風が唸る。
それでも、俺は刀を抜く。
黒煙の中、膝を折ってこちらを見上げるエルグ=デザイア。その眼窩の奥に、確かに意志のようなものが宿っていた。
「俺が、やる!!お前を倒して、必ず静奈の目を覚まさせる!」
身体を捻り、落下の勢いそのままに、刃を構える。相手はすでに魔力を封じられた状態。だが、それでもあの化け物は、生きている。
魔力が使えないなら、あとは肉体だけだ。
黒水晶のような外皮。うねる尾と、鋭い爪を持つエルグ=デザイアが吠える。
重力に引き寄せられ、地面に迫る。落下の勢いを加速させ、体全体が剛力を帯びていく。空気が耳元を切り裂くような感覚に包まれる中、冷静さを保ちながら目を凝らす。
目の前に巨大なエルグ=デザイアがいる。多くの魔力を取り込んで進化したこいつはおそらく強い。でも魔力が封じられている今、全ては己の肉体のみで決まる。
「これが、最後のチャンスだ!」
視界が一瞬歪む。身体が加速し、切り裂く瞬間を全ての重力をそのまま攻撃に変える。エルグ=デザイアの黒水晶のような外皮を貫くために、何もかもを捨てて集中する。
地面まであと数メートル、背筋に冷や汗が流れる。腕を振りかぶり、刃を全力で振り下ろすその刃は、ただの一撃では終わらない。
自由落下の勢いを全て刀に込めて、加速する刀身がエルグ=デザイアの上空に届く。そのまま一気に斬り下ろす。
まるで刃そのものが天から降り注ぐ雷のように、硬質な外皮に深く突き刺ささり、衝撃で地面が割れる。
エルグ=デザイアは咆哮をあげ、その体を一瞬硬直させた。
だが、怯んだのは一瞬だった。
獣の咆哮とともに、巨大な爪が音を裂いて振り上がる。本能のままに振るわれた一撃。それを紙一重で前転し、回避。
地を割るような衝撃とともに、再びエルグ=デザイアの爪が襲いかかる。
だが俺は、すでに動いていた。
足裏を地に叩きつけるように踏み込み、刹那の加速。風を斬って、爪の軌道の外へ滑り込む。スライドしながら、低い体勢のまま刀を引き抜き、右の脇腹へと斬撃を叩き込む。
キィィン!
火花が散る。斬撃は深くは入らない。だが、間髪入れずに動く。
跳ねるようにバックステップ。だが、その瞬間。
「――ッ!」
尾だ。背後から迫る黒尾が、鉄槌のような質量で叩きつけてくる。反射でしゃがみ、頭上をすれすれで通過させる。尾が背後の建材を砕き、衝撃波が巻き上がる中、俺は前方へ跳ぶ。
空中で一回転。
エルグ=デザイアの顔面めがけて、刀を逆手に構えて振り下ろす。敵の右腕が咄嗟に防御に回る。刃が腕と擦れ、黒外殻を裂くような音が響く。
空中から着地。地を蹴り、そのまま側面に回り込む。奴の爪が追ってくる、上下に斬りつけるような軌道。
避けきれない。
俺は、斬られる瞬間に左腕で受け、勢いをそのままに回転。地を滑るように飛び込み、敵の膝裏へ斬撃を見舞う。
「はああっ!!」
外殻が裂け、黒血が飛び散る。が、すぐに後方から尻尾が振り抜かれる。
瞬間、脚を踏み込み、体をねじり、ギリギリで背後に抜ける。
全身が紙一重でかわし続けるその刹那の連続。そのたびに筋肉が悲鳴を上げるが、それでも、俺の身体は動いてくれる。
「速いっ!でも、見えてる!」
言葉と同時に急接近。フェイント混じりの斬撃を左右から繰り出し、爪と尾を引き出させる。狙いはそこじゃない。
敵の動作を見切る。ほんのわずかな間に、右肩が開き、尾が遅れて回り込む。
その一瞬の隙を読んで、前方からすり抜ける。
「斬るッ!!」
踏み込みと同時にフルスイング。刀が腰元を斜めに裂く。悲鳴のような咆哮。だが反撃も即座に来る。両腕が上から振り下ろされるが避けるのではなく、それをを刀で受けた。
「ぁああああっ!!」
両腕と刀が正面衝突。爆発したかのような音とともに、エルグ=デザイアの一撃を受け止める。刀身が軋むが、止まる。次の瞬間、跳ねるように再加速。
斬撃、斬撃、斬撃。
目にも止まらぬ連撃が火花を撒き散らし、エルグ=デザイアの身体を切り裂いていく。黒水晶の表皮が砕け、裂け、呻き声が漏れる。
互いに満身創痍。だが、一歩も引かない。
地面を砕きながら後退するエルグ=デザイア。その巨体からは次々と黒血が滴り、かつての威圧感が少しずつ剥がれ落ちていく。
だが、その一撃一撃がどれほど命を削るか、こちらも痛いほどわかっている。
「……ッ、ハア、ハア……!」
息が荒い。視界が揺れる。だが、止まれない。
俺は一瞬だけ重心を低く落とし、次の一歩にすべてを乗せた。
足元のコンクリートを砕いて加速。瞬時に接近し、右腕へ連撃を叩き込む。
ギン!ギィン!ギシャッ!
硬質な外皮が斬撃を受け止めるも、すでにその部分はひび割れを起こしていた。三撃目で肉が裂け、黒煙が漏れる。
エルグ=デザイアが咆哮し、反射的に左爪を振る。だが、俺はそれすら読んでいた。
身を沈めてすれ違いざまに斬り上げ。喉元にかすり傷を刻む。
「足も、鈍ってきたかぁ!?」
返す刀で膝関節を狙う。横から深く斬り込むと、脚がぐらついた。
その瞬間、奴の身体がほんのわずかに沈む。
喉。関節。側面。尾の付け根。一つずつ、外殻の綻びが露わになっていく。
ここまで戦えばわかる。エルグ=デザイアはもう、全盛ではない。踏み込み。ステップ。斬撃。
裂ける肩。避けられなかった尾の付け根。腹部を浅くえぐり、軸を崩す。
「お前は、ここで!終わらせるッ…!」
「ヴァオオォォォォ!」
吠え声に似た叫びと共に、敵の右腕が回し蹴りのような動作で襲いかかる。
咄嗟に回避し、間合いを取り直す。だがそのわずか一歩分で、俺は再び駆けた。
剣を引く音が、空気を裂く。
振り抜いた刃は、左の肩から腰までを深く斬り下ろし、刹那、黒血の噴出が爆ぜる。
「うおぉぉぉぉ!!!」
敵の片膝が、ついに地に落ちた。
その巨体が、少しだけ傾ぐ。
「効いてるッ!!このままっ…!」
だがそのとき――
『魔力断絶砲、効果切れまで残り十秒!ですが…再装填、間に合いません!』
インカム越しに、化学班の声が飛び込んできた。
「マジかっ!」
嫌な汗が背を伝う。魔力の封印が解ければ、エルグ=デザイアの真価が再び解き放たれる。それを許せば、今度こそ抑えきれない。
「今、終わらせるしかねぇッ!」
歯を食いしばり、さらに踏み込む。だが、間に合わなかった。
周囲の空気が震える。
黒水晶の外殻に、再び魔力の脈動が走る。
「ッ…やべぇ!」
次の瞬間、エルグ=デザイアの胸部に収束する、深淵のような魔力。
その口元のような穴がわずかに動いた瞬間、直線上の空間が引き裂かれた。
深黒の光線が瞬間的に放たれた。
それは光というよりも虚無だった。
真っ直ぐな軌道上にあった廃ビルが、数棟まとめて吸い込まれるように消え去る。音すら飲み込む光の奔流。
即座に横へ跳ぶ。だが、光線の端が左腕をかすめた瞬間、服ごと皮膚が裂けるような激痛が走った。
「ぐっ……!」
地面を転がりながら体勢を立て直す。そのとき、視界の端、空中で敵の姿が舞うように見えた。
エルグ=デザイアの周囲に浮かぶ刃群が、回転しながら形を変え、鉄壁の防御と攻撃を兼ね備えた魔術陣となる。
「くそ…近づけないっ!」
迷っている間に、エルグ=デザイアの周辺を飛んでいる刃が、踊るように迫ってくる。
「日向丸ッ!ノワッ!」
俺の声に応じるように、日向丸の小さな身体が光とともに現れた。刹那、淡く揺れる膜のような黄金の魔法壁が展開され、飛来する刃を正面から受け止める。
刃が迫る視界を覆うような無数の斬撃を、左右から展開される魔法壁が、刃を弾いた。
「助かった!」
息を吐く暇もない。一瞬だけヴァル=トリスを呼び出し、命じる。
「撃ち抜け!ヴァル=トリスッ!!」
圧縮された嵐が、空を切り裂いた。エルグ=デザイアの周囲に激しい突風と蒼光が渦巻く。
次の瞬間には召喚を解除。魔力消費が重すぎる。
視界が白く染まった瞬間を見逃さず、俺は燈華を召喚。静かに、だが鋭く言葉を落とす。
「行くぞ、燈華」
それだけで、彼女はうなずいた。ノワと日向丸を追従させ、駆け出す。
俺と燈華。二人で左右からエルグ=デザイアに接近。刃が飛んでくるたび、日向丸が自動で魔法壁を張る。
完全な連携。もはや言葉すらいらない。
だが、敵も容易には崩れない。鋭い反応、研ぎ澄まされた勘、そして巨大な肉体。全てが俺たちの一歩先を読もうとしている。
ならば。
「ノワ!領域封鎖だ!」
「了解デス!!!」
十五秒間、魔力を封じる。それだけあれば、充分だ。ノワの魔力が広がり、空気が凍ったように重くなる。
球体の一部がパカッと開いて魔術式の光が漏れ出す。
「領域封鎖、起動っ!」
ノワの身体が宙に浮き、無数の小さな魔導ギアが展開され、ボンッと赤い閃光が瞬いた。直後、地面にバチッと黒い線が走る。
甲高い音とともに空間に干渉が始まった。
空気が歪む。ノイズのような微振動が辺り一帯に走り、視界が一瞬ノイズが走ったように乱れる。重力すらねじれたかのような違和感。
エルグ=デザイアの魔力が、まるで空気に呑まれるように吸い込まれていく。魔力の波動が静まり、空間が音を失ったように沈黙する。
まさに、魔力そのものが否定された異常領域。デザイアの外殻に走っていた魔力の脈動が止まり、浮かぶ刃群もひとつ、またひとつと弾けるように砕けていく。
燈華に目配せをすると、俺が何をしたいのか察する。
「識を惑わすは、白霧の帳
見よ、此処に在るものは形に非ず
影に非ず、虚にして実、実にして幻
仮象を実象へ、現象を虚構へ
俺の横で、燈華が詠唱をしているのが聞こえる。戦場の中で、なぜかその声が心地よく聞こえた。
「いま一度、真実の皮を剥ぎ
知覚の王座を我が手に取り戻す
我は紡ぐ、欺きの地平」
「「幻域・無垢の帳」」