6.悲しみを喰らう狐
死を覚悟していたが巨大な手が俺に降りかかることはなった。恐る恐る片目を開ける。
誰かが立っている。
黒く短い丈の羽織が静かに揺れ、ぴたりと体に沿うインナーの胸元には家紋のようなものが誇り高く刻まれていた。袴のようなワイドパンツが、足捌きを邪魔しないよう流れるようなシルエットを描き、膝まで覆う編み上げブーツが大地をしっかりと踏み締める。
そしてその顔には赤い狐の面。無機質な表情の仮面が逆にこちらを睨みつけているような錯覚を抱かせた。高く結ばれた金髪が風に揺れ、耳元でわずかに揺らめく。腰には鋭く煌めく一本の刀と小太刀を帯刀していた。
特に目を引くのはふわふわと宙を漂うように靡く尻尾と耳が獣人、または妖怪の類であることを示していた。
「主様。わたくしこんな雑な召喚陣かつ雑なタイミングで呼ばれるなんて初めての経験でとても興奮しております」
「成功してたんだ!」
「お初お目にかかります。わたくし燈華と申します。以後お見知りおきを。主殿」
右腕を掲げ、巨大な異形の握りこぶしからの鉄槌を抑えたまま悠長な口ぶりで挨拶を交わす燈華。
「最後の契約を結びたいのですが…この大きなお客様と小さなお客様方が少々お邪魔でございますね」
燈華が空いている左の指で空中をなぞると一瞬だけ魔法陣のようなものが浮かんだと思った次の瞬間、すべての魔物が糸の切れた操り人形のようにばたりと地に伏せる。
「倒したんですか?」
「まさか。少々得意な技で眠って頂いているだけでございます。では主殿。契約の履行をお願いしてもよろしいでしょうか?」
契約…。俺が最後に書いた未完成の星のようなマークが意味するもの。それは俺の感情か五感を与え召喚した者を強化する。何を与えようか考えた時、さっきの光景が脳裏をよぎる。
「い、いいい行ってよ天ケ瀬君っ…言ったよね?肉壁になるって…!!魔法壁も出せないなら早く行って囮にでもなってきてよ私たちの代わりに!!」
こんな感情はいらないかもしれないな。
「燈華さんには「悲しみ」の感情をあげる」
「主殿。主殿がどれほどつらい出来事にあわれたのか、若輩者のわたくしには到底理解できません。しかし悲しみという感情は、主殿が思うよりも遥かに大切な感情にございます。「退屈」なんてのはどうでしょうか。あれは無ければ無いほど良い感情ランキング第―」
「良いんだ」
「……招致いたしました。主殿の決定に口出ししてしまう愚かなわたくしをお許しください」
片足を斜め後ろの内側に下げ、もう片方の足の膝を軽く曲げパンツの裾を摘まむ。
「主殿の悲しみはわたくしがお引き受けいたしましょう」
燈華さんは指をパチッと鳴らすと今まで眠りこけていた魔物たちが一斉に体を起こす。
小型の魔物がグラウンドの砂を蹴り上げながら四方に散開し、その背後には異形の巨人が鎮座している。細くねじれた腕が地を這い、頭頂部の口のようなところからは黒い涎が滴り、単眼がギョロリと俺たちを捉えた。
「主殿、深呼吸を」
俺は静かに息を整え、わずかに膝を落とす。
「気をつけてください。あのでかい奴の目には魔法を無効化する効果があるかもしれません」
ふわりと金色の尾が揺れる。隣に立つのは、今しがた俺が召喚した狐の様な見た目をした女性。その紅い仮面が戦場を静かに見据え、微笑を浮かべたような声で言った。
「であれば、おそらく問題ないかと」
小型のモンスターが一斉に飛びかかる。燈華さんは何もせず、ただその場に立っている。いや——何もせず、ではない。彼女の金色の尾がふわりと揺れた刹那、戦場が一変する。
淡い炎が舞った。
グラウンドの砂の上に、青白い狐火のような幻影が広がる。炎に照らされたモンスターたちは、己の影が歪むのを見た瞬間、動きを鈍らせた。足元の感覚が狂い咄嗟の判断を誤る。その一瞬を俺は逃さなかった。
小型モンスターの動きが鈍ったその隙に攻撃を試みる。未だに手の震えは止まらず鼓動は悲鳴を上げているが魔物からしてみればそんなことは関係ない。無慈悲にもするどい爪で俺を切り裂こうと腕を振り回す。
迫りくる爪を左斜めに刀を振り斬り落とす。左足を一歩下げ横なぎに頭部を斬る。返す刀で後続の魔物の頭頂部から真下にぶった斬る。
「ふぅっ、ふぅっ…!」
極度の緊張からすぐに息があがり肺を痛めつける。生物を斬る気持ちの悪い感覚に吐き気を催すが、なおも魔物からの攻撃が緩むことはない。
次々と迫りくる攻撃を何とか躱しながら防戦一方を強いられていると視覚外からの攻撃に被弾しそうになる。痛みを覚悟しつつも無我夢中で刀を振るうと、まるで刀に魔物が吸い込まれるように斬れる。
一瞬才能が覚醒したのかとも思ったが、良く見れば自分が受けるはずだった攻撃がどこかで逸らされていることに気づいた。
燈華さんは決して直接手を出さないが俺が自力で戦い抜くための最低限の手助けをしてくれているような気がする。炎で注意を逸らし、軌道を狂わせる。それだけで俺は致命傷を負うことなく戦場を駆け抜けられている。
やがて小型のモンスターが斬り伏せられ残るは大型の魔物のみ。こいつの武器である魔法の無効化は魔法が使えない俺にはまったく意味をなさない上に、なぜか燈華さんにも効いていないようだ。
業を煮やしたのか魔物は咆哮し、細くねじれた四肢を振り乱す。規則性のない攻撃に避ける事で精いっぱいだ。緊張状態が長く続いていたためか膝の力が抜け体勢を崩す。
「やばい!」
一瞬の隙を見逃さず、魔物の巨大な手が俺を潰そうと迫りくる。
命の危険を本気で感じたその時、まるで俺の位置を誤認したかのような場所に拳が振り下ろされた。目の前を巨大な物質が通り過ぎたことによる余波と迫力に冷や汗が止まらない。
だが今の必殺の気持ちを込めた一撃で魔物もまた隙を生み出し頑強な巨躯を誇る敵が隙を見せた。燈華さんはそれを見逃さず金色の尾が揺れる。
研ぎ澄まされた刃が閃光となり、およそ人間の身体能力では成しえない動きで空を裂く。
敵の分厚い筋肉を嘲笑うかのように、大木のような腕が易々と切り裂かれた。斬撃の余韻が残る間もなく切断された腕が地に落ち、鈍い音を響かせる地に伏せる。
「ぐおおおおっ!」
咆哮が戦場に轟く。燈華は体操選手のごとく華麗に着地し、吠える。
「今です主殿!」
燈華さんの声が聞こえた。心臓が激しく脈打つ。
やらなきゃ!
震える足で地を蹴り、手にした刀を振り上げる。迷いがあった。恐怖もあったが刃を振り下ろした。しかし軌道が甘いのか敵の頭部に食い込むものの、致命傷には至らない。
「くっ……!」
焦る。しかし、引いている余裕はない。
「うおおおおおお!!!」
歯を食いしばりもう一度、力いっぱい押し込む。鈍い感触が伝わり刀が肉を裂く。敵の体がビクリと震え、やがて重力に従い倒れ込んだ。
俺は荒い息をつきながら、強く握しめすぎたせいか血の滲む刀を握ったまま立ち尽くす。
「や、やった……?」
実感が湧かない。だが、敵はもう動かない。
「流石にございます。我が主殿」
その言葉に緊張が一気に解けた。膝が笑い、地面にへたり込む。
戦いは終わった。けれど、心臓の鼓動だけは、まだうるさく鳴り響いていた。