56.静かなる破滅の繭
魔力の濃度は限界まで高まり、もはや皮膚がざらつくような感覚を覚える。まるで全身を、目に見えない風が擦っているような感触。
息を吸うだけで喉に熱が走る。視界の端が揺らめいて見えるのは、気のせいじゃない。魔力に空間そのものが、軋んでいる。
燈華がひとつ手を上げて、ぴたりと動きを止める。
その瞬間、全員が本能的にしゃがみ、物陰に身を伏せた。
何かが、こちらを見ている。
否、そう感じるだけで、実際に見られているわけじゃない。だが全身の筋肉が強張る。
何の音もない、風すら吹かない中心広場。瓦礫とひび割れた地面が広がるかつての駅跡。その中央に、そいつはいた。
遠目に、まずシルエットが見えた。
瓦礫の隙間から、かすかに見えたのは、丸く、だがどこか歪な、脈打つ塊だった。
おそらく巨大な繭だ。
色は灰と黒を混ぜ合わせたような不快な濁色。表面はひび割れと腫瘍のような膨らみで覆われており、時折、そこが脈打つたびに中からぼんやりと光が漏れ出す。その光も、ただの魔力とは思えない、意志のようなものを帯びていた。
「…あれが、魔力反応の中心」
俺の声は自分でもわかるほどかすれている。静奈も燈華も、言葉を発さない。ただ、凝視していた。
あれが繭であるならば、生まれようとしているのだ。何かが。何かこの世の理から逸脱した存在が。
燈華がかすかに唇を震わせる。
「静奈様の言うとおり一度帰りましょう。今は…まだ、間に合います」
俺も頷こうとした。そのときだった。
ベキィッ……パキ……パキン……
乾いた、そして粘着質な音が静寂を裂いた。繭の表面にひびが走る。あちこちが不規則に脈動し、裂けていく。内側から何かが動いている。
俺たちは無意識に後ずさった。手のひらが汗で濡れている。刀を握っているはずなのに、力が入らない。
繭が崩れ、何かが這い出してきた。
長く、節のある四肢。昆虫にも似た構造だが、鎧のように硬質で、禍々しいまでに滑らかな黒と銀の外殻が光を鈍く反射する。
頭部は仮面のように滑らかで、目らしき器官は見当たらない。まるで感情も表情も存在しない面そのもの。
だが、その仮面の下部、口元のあたりから無数の細くしなやかな触腕が垂れ下がり、ゆらりゆらりと揺れていた。風もないはずのその場所で、まるで独自の意志を持つように動き続けるそれらは、時折地面を撫で、空気を探るように蠢く。
触腕の一本一本は赤子の腕のように太さで、先端に微細な鉤爪がついているのが見て取れる。それらが擦れ合うたび、かすかに乾いた金属音が鳴った。
まるで、殻の中から脱皮したての昆虫のように、四肢をうねらせながら、そいつは地面に立った。
そして、すぐさま動いた。
迷うことも、周囲をうかがうこともなく。
そいつは、近くに転がっていた魔物の死体へと向かい、まるでそれが「当然」であるかのように、口を大きく裂いて噛みついた。
ボリッ グシャッ ズルズルズル……
肉を引き裂く音。骨を砕く音。魔力が泡立つように揺らぎ、そいつは咀嚼し、嚥下した。次の一体へ、また次の一体へと、死体を漁り、喰らっていく。
「……うそ、だろ」
静奈の声が、まるで子どものように震えていた。俺も同じだった。喋れなかった。息すら忘れていた。
「孵化して、すぐ…捕食を開始…。それも、ためらいなく…。わたくしの予想が合っていれば…」
燈華の言葉に、俺はやっと思考を動かした。
あれは、まだ成長途中だ。
繭から生まれたばかりの「初期形態」。本能的に魔物を食っている。それはきっと、成長するためだ。
だとすれば。
「今あれを逃したら、次はどうなるんだ……?」
「倒すしかない…!今、この段階で!」
俺たちは、意を決して飛び出す。
逃げたいという本能を、無理矢理押し殺して。
しかし、次の瞬間。
昆虫ともタコとも取れないそいつは、こちらを向いた。
視線はないはずなのに、見られていると分かった。瞬時に殺気がこちらへと注がれる。
獲物を認識した獣のように。
戦うしかない。だが、心の奥底では、誰もが思っていた。
勝てるとは、思えない。それでも俺たちは、刀を構えた。
静奈が先手を取った。
大気を切り裂く一閃が、雷光の尾を引いて魔物に迫る。
だが。
ズゥン
空間そのものが震えたような気配と共に、魔物の周囲に淡く揺らめく何かが浮かび上がった。
それは霧のようであり、膜のようでもあった。
ぼやけた光を帯びたそれが、静奈の雷撃をふわりと包み込むように受け止め、衝撃が拡散され、何の効果も残さぬまま、空気に消えた。
「くっ…届かねぇ……!?」
静奈が叫ぶのとほぼ同時に、俺も前に出て、蒼い火を刃に宿す。
「蒼火一閃ッ!」
斬撃とともに、幻のような炎が結界を裂こうと奔る。
だがそれも、同じく霧のようなものに吸い込まれるようにして消失した。
こちらの攻撃がそもそも届かない。
「なんなんだ、これ…!ノワ!」
試しに、ノワを召喚し魔術を放った。だが、風も雷も火も氷も何もかもが弾かれ、意味を持たなかった。
俺たちが攻撃を試みている間にも、魔物は動いていた。
触腕の一本が、近くに転がっていた死体に絡みつく。ひとつ、またひとつと魔物の死骸を引き寄せ、あの無表情な仮面の下へと運び込んでいく。
貪欲に、規則的に、着実に。
咀嚼音が響くたび、霧の結界がわずかに脈動したように見えた。まるで、その捕食がこの結界の力を増しているかのように。
「おいまさかこれ、どんどん強くなるとかじゃねぇよな…」
静奈が震える声で言った。燈華も頷く。
「間違いありません。今のあれはまだ脱皮直後。完全に目覚めていないのです」
「それでこの硬さかよ……!」
まるで巨大な繭に再び閉じこもるかのように、魔物はその霧の殻の中で成長を続けている。
このまま放置すれば、いずれ完全な個体に進化する。
この先、何を喰い、何を糧にして進化するのか…。
だがそれが完成してしまえば、俺たちの手には負えなくなるのは確実だった。
それから、どれほどの時間が経ったのか。
感覚が曖昧になるほど、俺たちは攻撃を繰り返していた。
静奈の雷撃、燈華の祟り火、ノワによる共鳴。俺自身も、蒼火と幻術の組み合わせで、何度もあの霧をこじ開けようとした。
だが、一度として結界に傷すらつかなかった。
霧は揺らぐだけで、変質しない。濃くもならず、薄くもならず。ただ一定の距離と厚さを保ち続けていた。まるでその空間だけが、別の法則で守られているように。
魔力は限界に近かった。呼吸も荒れ、思考も鈍り始めている。
それでも、俺たちは止められなかった。
その中心で、四足歩行の魔物は確実に変化していた。
異形の外殻は、最初よりも明らかに分厚く、硬質な輝きを帯びている。背部には、新たな節のような膨らみが形成されつつあり、触腕は太くしなやかに成長していた。
捕食も、すでに死体だけに留まらなくなっていた。
近くに潜んでいた弱い魔物たちが、何かに引き寄せられるように結界の周囲へと現れ、近づいた瞬間、触腕が伸び、鋭く突き刺さる。
「ズシュッ……グチュ……」
抵抗する間もなく、魔物たちは引きずり込まれ、あの仮面の口元へと運ばれ、喰われていった。
動くものを喰い、動かぬものも喰い、あの怪物は少しずつだか、確実に別の何かへと変わりつつある。
「もう、無理だ…あたしらの攻撃じゃ、通らねぇ……」
静奈が膝をつき、肩で息をしていた。額から滴る汗が、地面に染み込んでいく。
「このままじゃ…どうすることもできません…」
燈華の声にも、焦りと悔しさが滲んでいた。
俺も、同じだった。
強くなりすぎる前に倒す。その唯一の望みが、もう手の届かない場所にあることは、わかっていた。
俺たちの前で、未知の存在が、堂々と進化していく。
止められないまま、ただ、それを見ているしかない。
ふと、ノワが小さく震えた。
言葉は発さないが、明確な拒絶の意思が感じられる。あれを敵と認識している。それも、絶対に対話不能の存在として。
俺たちは、この怪物が完成するその瞬間を、ただ待っているだけなのか。




