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43.剣を抜かずに辿り着く場所

 白い霧がすべてを覆い尽くすと同時に、俺たちは記録の間の床に戻っていた。


 視界はぼやけたまま、頭の奥がじんじんと痛む。記録がもたらした衝撃は、それだけ重かった。


「魔王、思ってたのと違ったな…。一方的に悪だって決めつけてた自分が恥ずかしいぜ」


 静奈がぽつりと呟く。彼女の表情にはまだ、あの少女の姿が焼き付いているようだった。


 俺もまた、同じだった。


 あの魔王は、確かに人間の敵だった。けれど。


「…殺しちゃいけない」


 不意に、自分の口からこぼれた言葉に、自分自身が驚いた。


 だが、その考えは確かに胸の奥から湧き上がっていた。理屈じゃない。誰かに教えられたわけでもない。ただ、あの少女の言葉と、眼差しと、痛みが俺の中に残っていた。


「…俺は、あの魔王と話をしたい。あんな悲しそうな目をした彼女が、自ら進んで人間を恐怖で支配する道を選ぶとは思えない」


 沈黙の中で、誰かが息を呑む音がした。


 しばらくして、静かに、杖の音が響く。振り向けば、記録を提供したヴァルナがゆっくりとこちらに歩み寄っていた。


 彼は記録の間に映っていた青年とは似ても似つかぬほど、穏やかで老成した目をしていた。けれどその奥に、どこか同じ色を感じた。


「かつての私は、魔王を信じられなかった。彼女の言葉を信じられるほど、私自身が清くなかった。だが、君には…選べる力があるのかもしれない」


 そう言って、ヴァルナは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


「これは、私が封印した転移の魔術紋だ。発動すれば、直接魔王城の中庭へと繋がる」

「……俺にくれるんですか?」


 ヴァルナは頷いた。


「ただし、一つだけ誓ってほしい。君がこの術を使うのは、説得のためであり、戦いのためではないと。剣を抜かぬまま、そこに立つ覚悟があるのなら、君に託そう」


 俺は、しばらく黙って羊皮紙を見つめた。


 だが、迷いはなかった。


「誓うよ。俺は…戦いじゃなく、言葉で終わらせたい。たとえ、それがどれほど難しいとしても」


 ヴァルナは満足そうに目を細め、羊皮紙を手渡してきた。


 その瞬間、手の中の紙からわずかに魔力の震えが伝わってくる。


「道は厳しい。だが、誰かがその一歩を踏み出さねば、未来は変わらない」


 俺は頷き、羊皮紙を胸にしまった。争いを終わらせるための、最初の一歩。


 それは、戦場ではなく、対話という名の場所から始まるのだ。


 夜が明けるまでの時間、俺たちはヴァルナの屋敷に泊めてもらうことになった。


 魔術の研究で築かれた家は、見た目こそ古めかしい石造りだが、内部は驚くほど整っていた。必要最低限の家具と、魔道書がびっしりと並ぶ書棚。余計なものは一切なく、静謐さが支配している。


 燈華は薄明かりの灯る窓辺に腰を下ろし、外を眺めていた。静奈は床に敷かれた布団の中で、目を閉じながらも微かに緊張を解かない気配を漂わせている。


 俺も眠るふりをしながら、心の奥で羊皮紙をなぞるように考えていた。


 魔王に会う。それはもう決して引き返せない道だった。


 やがて、東の空がわずかに白んで鳥のさえずりが聞こえる。


 ヴァルナが部屋をノックし、俺たちを中庭へと導く。


「準備はいいか?」


 俺たちは黙って頷いた。


「転移先は、魔王城の中庭だ。そこは当たり前だが魔物たちの縄張りだ。真っ向から挑めば、無事には済まんだろう」

「そこは大丈夫です。俺と燈華の幻術があるので」

「そうか。お前達は俺の幻術も破っていたし問題ないか」


 そういうと羊皮紙に書かれた魔術紋が浮かび上がる。薄く白い光が足元から広がり、俺たちの姿を包んでいく。空気が波打つような感覚。俺たちの気配が、周囲から切り離されていく。


「行こう」


 ヴァルナが地面に魔術紋を描き、転移の詠唱を始めた。


 魔力が渦巻き、紋が蒼く輝いた瞬間、俺たちは地を離れ、光の中へと呑まれていった。


 次の瞬間、凍てつくような空気が肌を刺した。


 石造りの中庭。蔓に覆われたアーチと、崩れかけた噴水。だが最も印象的だったのは、沈黙の中に蠢く気配。


 魔物だ。


 羽のない竜のような影が、瓦礫の上で身を休め、無数の目を持つ獣等の教科書にも載ってない様な魔物達が地を這っている。その中心には、一際大きな魔物。まるで兵を束ねる将のような存在が、城門を睨んでいた。


 そのどれもが、俺たちには目を向けていない。俺と燈華の幻術が、確かに効果を発揮している。


「今のうちだな」


 静奈が低く言うと、俺たちは音を立てぬよう慎重に走り出す。


 瓦礫を踏まず、影に沿って移動する。心臓の鼓動が速まっていくが、呼吸は殺す。魔物の目の動きに合わせて身を伏せ、進み、また進む。


 目指すは、あの奥。ひときわ高くそびえる塔。その頂に、魔王が座す部屋があるはずだ。


 途中、俺と燈華で何度か幻術を掛け直し魔物の意識が逸れていく。


 だが、徐々に気配の圧が強まってくる。あの将のような魔物が、微かに鼻を鳴らした。


 気づかれたか?


 俺は一歩、踏み込むたびに思考を研ぎ澄ませた。


 剣を抜かずに、たどり着く。言葉を交わすために。


 だから、今はまだ戦わない。ここを抜ける、その一歩を、止めない。


 そして、塔の扉が、目の前に現れた。


「あと少し……!」


 幻術が限界に近づく中、俺たちは扉へと手をかけた。


 その向こうに、魔王がいる。かつて人間を信じ、裏切られ、それでも滅ぼすことを選ばなかった存在が。


 俺は扉を押し開く。


 対話の時は、もうすぐそこだ。


 そして重厚な扉を押し開いた瞬間、空気が変わった。


 その広間の中心に、たったひとり。玉座のような高台に腰を下ろす、小さな影があった。


 第一印象は、「あまりにも、ちいさい」だった。


 あのとき記録で見た少女と、同じ姿。だが、今ここにいる彼女は信じられないほど、美しく、そして哀しかった。


 黒を基調とした礼装が、淡い陽光を受けて輝いている。袖が長く、布が空気を含んでふわりと揺れ、そのたびに夜空を思わせる刺繍を携えた裾の銀糸が微かに瞬いた。まるで風そのものを身にまとうような姿。


長く流れる髪は、夜の湖面のように深い群青。光の角度によって、紫とも銀とも見える。毛先には、星をちりばめたような細やかな輝きが編み込まれており、静かな美しさを宿している。


 左右の瞳は異なる色をしていた。左は琥珀、右は薄い紫。けれどどちらも、深く澄み切っていて、まるでこちらの心を映しているようだった。


 神々しさと可憐さが、まるで矛盾せずに同居している。


 それが、世界を敵に回したとされる存在魔王だというのだから、思考が追いつかない。


「あまりにも想像と違いすぎる…」


 思わず俺は、声を漏らしていた。


「あのジジィの記憶と全然ちげぇじゃねぇか」


 威圧も怒りもない。ただそこに、静かに座しているだけなのに、胸の奥に重く迫るものがある。


 そして彼女は、ゆっくりと顔を上げ、その双眸が、まっすぐにこちらを見据えた。


「我が家へようこそ。私を殺しにきたのか?」


 その言葉は、まるで歓迎の挨拶のように淡々としていた。けれど、そこに込められた意味はあまりにも重い。


 「殺しにきたのか?」そんな言葉が、まるで日常の挨拶のように口から零れる。その声音に、怒りも、怯えも、何もなかった。ただ、すべてを諦めた者だけが持つ静けさがあった。


「…違う。俺は、あんたと話をしに来たんだ」


 魔王のまばたきが一度、止まった。それは、心底意外だという反応だった。


「話、か…。私と話をしたいなんて言う奴は、あなたで二人目だよ…」


 それが初代勇者のことを言っているのだとすぐにわかる。小さな笑みとともに紡がれたその言葉には、どこか哀しみがにじんでいた。


「ひとつだけ聞かせてくれ。俺たちの世界、日本になぜ魔物を放った?」


 問いの声に、魔王は微かにうつむいた。長い髪が肩から流れ落ち、影が表情を隠す。


「それは…」


 かすかに目を逸らしながら、口元に手を添える。


「そうするのがこの国にとって良いと判断したからよ」

「本当に、そうか?」


 静かに問う。詰め寄るわけでもなく、ただまっすぐに。


 魔王の睫毛が微かに震えた。


「それ以上、聞いてどうするの?憎むべき存在が事情があったって分かったからって、許すことなんてできないでしょう?」

「俺はあなたが初代勇者との約束を破るとは思えない」

「っ!…勇者を知っているの?」

「あぁ。ヴァルナの記憶を見た」

「そう…。でも私はその約束を破って魔物を放ったわ」

「どうして約束を破った?」


 その問いに魔王は明らかに狼狽え、目を泳がせる。


「約束をした勇者はもういない。彼の仲間も死んだかもう老いぼれよね?だったらもう約束を守る意味なんてないわ」


 その言葉に、少しだけ語気を強めた彼女は、まるで自分自身に言い聞かせるように視線を逸らした。けれどその声音には、はっきりと迷いがあった。


「嘘だろ、それ」


 俺はゆっくりと前に歩み出る。決して剣を抜かず、ただ声だけで彼女に近づいた。


「なんでそんな動揺してるんだ?あんた、本当は…」

「黙って」


 遮るように、魔王が低く呟く。その指先が、小さく震えていた。


「わかった様な口を聞かないで…。私がどんな気持ちでこの決断をしたと思っているの!」


 小さく、手が震えていた。けれど、それでも逃げずに、彼女は言葉を続けた。


「嫌に決まってるじゃない…。私は最初から争いなんて望んでないんだもの…」

「じゃあなんで…!」

「……命じられたの。他の世界の魔王たちに。『日本を攻めろ』と」

「他の世界?」

「そう。私の世界と日本とを繋ぐ扉は、彼らの計画上都合がよかったみたい。地形的にね。最も侵攻しやすい場所だったから。だから私が選ばれた。先兵になれと」


 魔王は静かに拳を握った。細く繊細な指が震えるほどに。


「断ったら民を滅ぼすと脅されたわ。私にとって、民は…この世界で唯一、守る価値のあるものだった。だから……だから私は従った。誰かを犠牲にしてしまうとわかっていても…それ以外、選べなかった」


 言葉を失ったのは、俺の方だった。


 日本に現れた魔物たち。街を焼き、人を襲ったあの災厄が、この小さな存在の「民を守る」という意思の果てだったというのか。


「あなたたちの世界にとって、私は悪よね。それはきっと、正しいんだと思うわ。私の指示できっと人が死んだし、恐怖を与えた。罰せられて当然」


 言葉が、口をついて出ていた。


「俺は確かに怒ってた。あんな被害が出たんだ。そりゃ許せないよ。けど、今こうしてあんたの話を聞いて。ヴァルナの記憶を見て、それでもあなたが敵だなんて簡単に言えるほど、俺は馬鹿じゃないつもりだ」


 魔王は、はっとしたようにこちらを見た。


 俺は一歩踏み出し、まっすぐに彼女を見据える。


「俺たちに協力してくれ。いや、協力しなくたって良い。何もせず、また平和に暮らしてくれたらそれで良い」

「で、でも…バレたら私の民が…」

「俺が全員倒して見せる。この世界に被害が出る前に、必ず!」




 魔王の瞳が、大きく揺れた。


 恐れとも驚きともつかぬ光が宿ったその目は、けれど確かに、わずかな希望を映していた。


「…簡単に、言わないで」


 ようやく搾り出された声には、震えがあった。


「そんな言葉、ずっと……ずっと誰にも言ってもらえなかった。『民を守るために』なんて言っても、理解なんてされない。信じてもらえない。利用されるだけで、裏切られて、奪われて……」


 彼女はぎゅっと目を閉じ、胸元を抱きしめるように両腕で覆う。


「誰かを信じるのは、もうこりごりだったの。でも、あなたは…なんなのよ…一体」


 その問いに、俺はただ、まっすぐに答えた。


「俺は、ただの人間だ。魔法の才能もないし、何かを救えるような力だってない。…それでも見過ごせなかっただけだよ。あんたの痛みを」


 沈黙が降りる。


 魔王は俯いたまま、じっと動かない。


 広間には、微かな風の音と、遠くで響く鳥の囀りだけがあった。


 だが、それはただの沈黙ではなかった。


「…初代勇者にも、似たようなことを言われたわ」


 ぽつりと、懐かしむように彼女は言った。


「彼も、私を殺す代わりに“死んだことにする”って言ってくれた。争いはもうやめようって。でもそれを破ってしまった私は…彼に合わせる顔なんて、もうないわね」

「その約束、俺が引き継ぐよ」

「…え?」

「俺は初代勇者の代わりでも代弁者でもない。でも、あんたのことを少しでも理解した者として言わせてくれ。俺も、ここであんたを殺したことにする。だからもう、争うのはやめよう」


 魔王の唇が、震える。


 それでも、何も言わずにじっと俺を見つめ続けたその目に、とうとうぽろりと、涙がこぼれ落ちた。


「そんなふうに…誰かに信じてもらえるなんて、思ってなかった」


 声が震えていた。


「ありがとう…人間の男」


 彼女の瞳は、もうさっきまでの冷たさを失い、ほんの少しだけ、救われたような色をしていた。


「俺は天ヶ瀬透真」

「エルフェリア=グレイスだ」


 俺は頷き、静かに笑った。


 これで、いい。


 そう心から思えたのは、ほんのひと時でもこの存在の、孤独な決断に寄り添えたからだ。

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