40. 霧中の真理と知の門
「黒煙の使徒が動くまでは、わたくしたちも無理に交戦しなくてもよろしいでしょう」
「そうだね。近くのグレイア王国は確か魔王と協力関係にある国のはず。そこまで辿りたければ手出しはしてこないだろう」
それから数日は、あえてその気配に背を向けるように旅を続けた。
昼間は何事もなかった。宿に泊まっても、誰かが襲ってくることもなく、使徒はあくまで監視として付きまとっているにすぎないようだった。けれど、夜になって焚き火を囲むたび、静奈と燈華の視線は森の奥や、風の中へと鋭く向けられる。
気を抜けない、けれど、戦いを仕掛けるにはまだ早い。そんな綱渡りのような緊張感をはらんだ旅が続いた。
そして、七日目の朝。
ついにグレイア王国の城門が見えた。
その都市は、高い外壁に囲まれながらも、開かれた交易都市としての顔を持っていた。門前には多くの商人や旅人が列をなし、荷車や馬車が途切れなく往来している。
門番は武骨だが無愛想ではなく、俺たちの身なりを見て軽く目を細めた。
「ここらで見ない身なりだな。どこから来た?」
「東方の村々を回って来ました。色々な文献を探したくて。王立図書館に行きたいのですが」
事前に用意しておいた言い訳を口にする。
「ふむ。よし、通れ。城下町に入って右の道を真っ直ぐ進めば王立区域だ。図書館はその中にある」
「ありがとうございます」
礼を述べて門を通る。都市の空気は、どこか乾いていた。人々は活気に満ちていたが、それと同時に均された秩序のようなものが空気を支配していた。
無法ではない。だが、自由でもない。そんな印象を受けながら、俺たちは王立区域へと歩を進めた。
広場の中央には噴水があり、その周囲には衛兵たちが目を光らせている。商人と貴族、旅人と研究者、そして一部の人間以外の何からの姿さえも見える。どうやらこの国は、魔王との協力関係の中で人外も受け入れているようだった。
「静奈、油断はするなよ。この国は敵か味方かもわからない…」
「うん、わかってる。けどなんか空気が妙に整いすぎてるよな?結界か何かか?」
「そうかもしれません。都市の中心部、特に政庁付近では高度な制御魔術が張られているようです」
燈華が言うとおり、この国は表向きには平和だ。しかしそれは、魔王との協定の上に成り立つ安定のように思えた。
やがて、王立図書館の白い塔が見えてくる。
荘厳で美しく、けれどどこか重々しい雰囲気を漂わせた建物。入口には衛兵が立ち、軽い身体検査を行なっている。
その身体検査を終え、俺たちは門をくぐった。
図書館の中は、外観以上に静謐な空気に満ちていた。天井まで届くほどの高い本棚が規則正しく並び、香のような魔素浄化の煙が薄く漂っている。足音ひとつにも気を配りたくなるような、知の殿堂。
「ここが、グレイア王立図書館か」
俺は息を呑む。静奈も、さすがに目を丸くしていた。
「魔術に関する文献も、この規模ならなんかあるんじゃねぇの?」
「そうだね。ノワもきっと大喜びだ」
ノワを呼び出すとあの廃れた国の図書館に比べ、かなり大喜びしており、時折言語がぐちゃぐちゃになるほどだ。
「でもこんだけ広いと手がかりを見つけるのも一苦労だなぁ」
「そうですね。少し観察して気づいたのですが、この国の図書管理は厳しく、階層ごとに閲覧制限が設けられているようです。特に魔物や魔王に関する記録は管理が厳しそうですね」
「簡単には見られないってことか」
館内を見回すと、数名の学者風の人物と、控えめに警戒するような衛兵の姿が目につく。警備も厳重だ。表向きは学術の自由を謳っているが、やはり何かは隠されている気配があった。
「とにかく、一般閲覧区から探ってみよう。魔術の歴史書や古い旅日記の中に何か手がかりがあるかもしれない」
そうして、俺たちは地図を頼りに図書館の下層へと足を運んだ。
そして、それは三時間ほど経った頃だった。
古びた文献の山に埋もれるようにして置かれていた、一冊の皮張りの本。それは書庫の片隅、目立たない棚の隙間に押し込まれていた。
「…おい、これ」
静奈が埃を払って差し出したその本は、背表紙も文字が擦れており、題名すら判別が難しかった。けれど、開いてみると―
「これは……旅の記録、か?」
ページをめくるたび、旅路の風景や出会った人物、討伐した魔物、そして「勇者」と呼ばれる存在の名が何度も登場する。そしてその傍らに、魔法陣の構成や転移魔法についての断片的な記述が残されていた。
「ヴァルナ…?」
その名に、俺たちは思わず目を見合わせた。日記の書き手こそ名乗ってはいないが、初代勇者の横で「常に魔法を調整し、旅路を導いた存在」として、何度も同じ人物が描かれている。
初代勇者と共に旅をした、伝説の賢者。
「あたし大手柄じゃね?」
「うん、間違いなくね」
日記の最後の方には、彼がある場所に隠棲する決意をしたという記述がある。はっきりした地名こそ伏せられているが、どうやら王都から南方の山岳地帯に、魔力の流れを遮断できる静域があるらしい。
そこに、彼は姿を消した。
「勇者と旅した賢者だ。何か知ってるだろう」
「行くか?」
「もちろん」
俺はそっと、日記を閉じた。
目的地は定まった。王都の南、山岳地帯。そこにある静域と呼ばれる場所。魔力の流れが弱く、外界との干渉を遮断する天然の結界地帯だ。
俺たちは数日分の食料を買い足し、王都を出発した。
南部山岳地帯へと足を踏み入れてから、三日が経った。
「うわ……めちゃくちゃ霧、濃くなってきたな」
当初はよく整備された登山道が続いていたらしいが、今は進めば進むほど山肌は険しさを増し、木々の密度も高くなっていく。今や地図もあまり役に立たず、方角は燈華の魔力探知に頼るしかない。
さらに山中には不自然な霧が立ち込め、視界は一歩先もままならないほどだ。
「お二人ともお気をつけください。この霧には少し、幻術が混じっております」
それを聞いた静奈が不機嫌そうに霧を払うが、手をかざした直後、視界の中の樹々がぐにゃりと形を変えた。次の瞬間には、まるで別の山道に立っているかのような錯覚すら覚える。
「ぐっ……くそ、方向感覚が狂いそうだ。どこまでが現実なんだぁ?
「この辺り一帯、強い拒絶の結界が張られてます。明確な敵意ではありませんが…おそらく、来訪者を遠ざけるためのものですね」
燈華の言葉に、俺は舌打ちする。
敵意ではなく、ただ干渉されたくないという強い意志。それがこの迷宮のような幻術と霧に繋がっている。
「ヴァルナが人と会うことを拒んでいるのかな…」
俺たちは何度も進路を見失いながらも、少しずつ霧の向こうに正しい道を見つけていく。けれど、一歩進めば、また二歩戻されるような錯覚に陥るほど、山は俺たちを拒んでいた。
「このままじゃ埒が明かないな…」
そう口にした時、ふと思い出す。
「来てくれノワ!」
「オ呼ビデスカ!」
「確かノワって、領域なんとかってやつで魔法効果を封じれたよね?」
「ソノ通リデス!領域封鎖プロトコルヲ発動シマス! オオオオ、オ披露目ノチャンスーッ!」
突然ノワの表面が、じわりと赤く染まる。色というより、内部からほのかに発熱しているような、警告ランプのような赤。球体全体がぷるぷると震え出す。
「領域座標固定……失敗! 再計算! フゥ……再計算! ヨシッ!デキタ! デキテナイ!? デキタァ!!」
空中をくるくると飛び回りながら、自分でエラーを叫びつつも前向きに突き進むノワ。ついには「ぷしゅう」と蒸気のようなものまで放ち、球体の一部がパカッと開いて魔術式の光が漏れ出す。
「領域封鎖、起動っ!」
ボンッと赤い閃光が瞬いた。直後、地面にバチッと黒い線が走り…。特に何も起こらなかった。
「ワ、ワァ。範囲内ニ魔法ヲ実行シタ者ガオラズ、失敗…デス…」
ノワが落ち込んだ声を出しながら地面に埋まる。
「あ、あー。ありがとうノワ!近くに術者がいないって分かっただけでも十分だよ…!良かったー近くないないなら安心だー」
「え、えぇそうですね!ノワはよく頑張っておりました!」
俺と燈華でなんとか励まそうとするが、穴から一向に出てこようとしない。
「ノワー?あの…今から実行する魔術にノワの力がぜっったいに必要なんですけど、力を貸してもらえませんか?」
「ノワハ役立タズデスノデ、力ニハナレマセン…」
「そんなことない!ノワがいたからこそ越えられない壁を登ることができたんだ!ノワは俺たちにとって必要なんだ」
「本当デスカ?」
「あぁ誓うよ」
ゆっくりと土を押し戻し、表面に出てくる。
「何ヲスレバ良イデスカ?」
やっと出てきたノワを見て、燈華と顔を見合わせる。
「今から行うのは《幻域・無垢の帳》です。幻術というのは干渉の魔術ですので、同じく干渉の魔術である幻術を使うことで相殺が可能かと思います。ですが相手は伝説の賢者が使う幻術。魔術紋に流す魔力は紋が破綻する限界ギリギリまで流し込んでも勝てるかどうか。わかりません…。そこで!ノワの共鳴の出番でございます!」
燈華がノワを抱き上げ、目を見つめる。
「ノワの共鳴にはいつも助けられてばっかりですね」
「ワァ。ボク役ニ立ッテタ!ガンバル!」
「ではいきますよ」
燈華の合図で《幻域・無垢の帳》の詠唱を開始する。
「識を惑わすは、白霧の帳
見よ、此処に在るものは形に非ず
影に非ず、虚にして実、実にして幻
仮象を実象へ、現象を虚構へ
いま一度、真実の皮を剥ぎ
知覚の王座を我が手に取り戻す
我は紡ぐ、欺きの地平」
「「「《幻域・無垢の帳》!」」」




