35.誰もいない街
数日が過ぎた。
俺たちは地図もなく、目印になるものもほとんど見つからない森の中を彷徨っていた。方角だけを頼りに歩き続け、時には獣の気配を感じて身を隠し、また時には、木の実や獲物を探して焚き火の煙を抑えながら食事をとった。
足元はぬかるみ、体は疲労で重くなっていく。それでも俺たちは止まらなかった。
「透真、少し休憩しよう。それが終わったら特訓ね」
「はいはい、わかってますよ、師匠」
静奈はくすりと笑い、背中の大剣を引き抜いた。
森を頭なく彷徨う中で俺は毎日静奈と剣を交えるようになっていた。最初こそ森を移動するだけで精一杯だったが、やがて「動きながら鍛える」という彼女の提案で、旅と訓練を両立させる日々が始まったのだ。
静奈の剣は速く、しなやかで、時に残酷なほど攻撃的だった。何度も叩き伏せられ、地面に転がる俺に、彼女は決まってこう言った。
「ほら起きて。あんたの動きぜーんぶ見えてるよ。次、どうする?」
ただの力押しでは通用しない。静奈の指導は厳しかったが、その分、俺の体も剣も確実に変わっていった。重心移動、呼吸、間合い。戦うということに、ようやく慣れてきたような気がした。
ある夜。
焚き火の明かりの中で、燈華が俺の隣に座り、尻尾をふわりと揺らした。
「主殿。だいぶ動きが良くなりましたね」
「まあね。静奈の動きを真似してるだけだけど……何か、コツがあったら教えてくれよ」
燈華は一瞬、考えるような素振りを見せると、静かに手をかざした。
燈華の掌に、淡く青い光が集まっていく。その光はやがて、小さな火の粒となり、ふわりと宙に浮かび上がった。焚き火とは異なる冷たい色合い。だがそこには熱があった。
「動きのコツとは違いますが、そろそろ一撃を通すための術を覚えるのはいかがでしょうか?」
「……術って、魔術のことか?」
「はい。名を《蒼火一閃》と申します。これは、火炎術の一種でございますが、一般的な火を放つ魔法とは性質が異なります」
燈華はゆっくりと立ち上がり、右手を前にかざす。そして、空に向けてひと息、短く詠じた。
「祟り宿りし蒼火よ、我が怒りに応えよ。穿て、《蒼火一閃》」
青白い閃光が、彼女の掌から放たれた。
直線的な火線、いや、まるで鋭い槍のようだった。射線上の木の幹に命中すると、火の槍は一瞬で貫通し、背後の草地を軽く焦がしてから消える。
その火は、不思議なことに、周囲を燃やすことなく、命中点だけを焼き穿つような動きをしていた。
「……これが《蒼火一閃》?すごい…」
「ええ。これは、対象への明確な敵意を火に変える術。焚き火のように燃え広がるものではなく、思いを一点に絞って放つ、精密な焔です」
燈華は振り返り、俺の目を真っすぐに見つめてくる。
「主殿は感情を露わにするのが得意なように思えますので、この術はぴったりかと。怒り、悔しさ、護りたいもののために湧く激情……それらを、魔術の核に据える事ができれば、強力な武器となりましょう」
「怒りの感情か…。あまり思い出したくないな」
「でしたら沙羅様を思い出すのがよいかと」
「沙羅か…」
「準備が良ければ、まずは構えを」
燈華は俺の手を取り、指の位置、腕の角度、足の開きまで丁寧に調整してくる。まるで舞を教えるかのように滑らかで、優しい手つきだった。
「……では、試してみましょう。詠唱をお願い致します」
「わかった」
呼吸を整え、胸に手を当てる。守れなかったもの。母さん。沙羅の涙。あの時の無力さ。
それらを思い浮かべると、胸の奥に小さな熱が灯った。
「祟り宿りし蒼火よ、我が怒りに応えよ穿て、《蒼火一閃》!」
瞬間、俺の掌から青白い火が閃き、放たれる。狙った木の幹には小さな焼け跡があった。
「ぅよしっ!」
確かに放った。それが小さくても、確かに術が成功した実感があった。
「初撃で成功するなんて…。幽欺を成功させてからの成長速度は本当に素晴らしいです!」
燈華が柔らかく笑う。
自分の中にあるものを力に変える。それは、魔法ではなく、魔術だからこそできること。
「この技は、武器に焔を纏わせるという使い方もございます。試してみては如何でしょうか」
俺は拳を握りしめ、もう一度構えた。
「そうなんだ。…もう少し練習してもいいか?」
「えぇ。いくらでもお付き合いしますよ、主殿」
蒼き炎が、また一つ、夜の闇を穿つ。
この火は、俺自身の意志が燃えた証だ。
もう、何も守れないなんて言わせない。
そしてまた数日が過ぎた。
森の風景は変わらず、目印も曖昧なまま進み続ける。
この逃亡生活には飽き飽きしてきたが、そんな中で習得した《蒼火一閃》。自分の感情から生まれるこの蒼き炎は、俺の中で確かな武器として根付き始めていた。
静奈はというと、焚き火の薪を足しながら、ちらりとこちらを見てくる。
「ずいぶん魔術らしい魔術が撃てるようになったじゃないか」
「まぁな」
「じゃあ今日はそれ込みでやろっか」
そう言って静奈は腰の大剣を抜き、いつものように鞘を土に突き立てる。
「訓練、しよ?」
甘えた声を出したかと思うと、返事も待たずに踏み込んでくるその動きに、俺はすぐに身構えた。森の地面は柔らかく、足場は安定しない。だが、その条件はお互い様だ。
刀を抜き、踏み込む静奈の攻撃をギリギリでいなす。風が、斬撃の軌跡を残してすぐ後を通り過ぎた。
「遅い!」
静奈が跳ねるように跳躍し、振り下ろしてくる。受ければ潰れる。かわすにもギリギリだ。
「くっ!」
咄嗟に後ろへ飛び退き、掌に力を集中する。
「祟り宿りし蒼火よ、我が怒りに応えよ穿て、《蒼火一閃》!」
青白い炎が、弧を描いて飛んだ。
だが静奈はそれを予測していたかのように、横へ跳び退いて避ける。
「いい感じだけど動きが読みやすいぞ!」
「くそ……!」
しかし構わず、俺は再び構えた。刀と魔術を織り交ぜる戦い。遠距離で魔術を、接近すれば刀で。静奈はその切り替えの緩みを見逃さない。
「もっと速く判断しろ!炎を撃ってから剣を振るまでの『間』が命取りになるぞ!」
静奈の剣が再び迫る。俺は身を低くしてかわしつつ、土を蹴って踏み込む。
「今度は……!」
魔術の力を右掌に宿したまま、俺は刀を左に構えた。そして、無詠唱で刹那の距離で放つ。
「《蒼火一閃》!」
爆ぜる青白い火。その光に静奈が反射的に目を細めた、その一瞬を狙って刀を振る。
しかし俺の刀は空気切り、静奈はバックステップでギリギリ回避した。
「いいねぇ!でもまだまだあたしには届かないな」
笑いながら、静奈が言う。彼女の口元には、どこか楽しげな緊張が滲んでいた。
「刀と魔術か。ちょっとずつあたしに近づいてるんじゃないか?お弟子くん」
「師匠の戦いぶりはかっこいいからね。どうしても真似したくなっちゃうよ」
「だろぉ?どんどん真似して強くなってくれよ!」
剣と魔術。肉体と感情。二つの力を軸にした俺の戦いが、ようやく形になり始めていた。
その日、森の向こうにようやく人の営みの痕跡が見えた。
低木が途切れ、視界が開ける。土に覆われた道が続き、ところどころに石畳のような整備跡が残っている。遠くには崩れかけた門と、そこから覗く朽ちた城壁の影。
俺たちは息をのんだ。
「……人の街、か?」
静奈が、眉をひそめる。俺も頷きながら周囲を見渡した。鳥の声はあれど、人の気配は皆無。だが明らかに、人の手が入った地形だった。
門は開け放たれていた、というより、片方は倒れ、もう片方は根元から焼けたように黒く崩れている。誰かがここを襲った。そんな痕跡がそこかしこに残っていた。
門をくぐると、かつての街並みが現れた。石造りの建物。曲がりくねった道。店の看板らしき板。だがそのすべてが、埃をかぶり、壊れ、打ち捨てられていた。
「人が……いない」
俺はつぶやいた。これだけの街で、まったく人気がないなんて、おかしい。
家の扉は開き、窓ガラスの割れた店内には商品らしきものもほとんど残っていない。代わりに目に映るのは、引き裂かれた布、乾いた血のような黒い跡、そして……牙で引き裂かれたような壁の傷。
「……静奈。ここって……もしかして」
「魔物に襲われたか」
静奈の声は低く、硬かった。彼女も周囲の痕跡を読み取っていたのだろう。
遠くから吹き抜ける風が、どこか寂しげな音を連れてくる。
誰もいない。気配も、生活の匂いも、暖かさも。
かつてこの街には人々が住んでいたはずだ。暮らし、笑い、喧嘩して、また仲直りして、そういう日常を過ごしていたはずなのに……今はただ、静寂だけが支配していた。
燈華がふと、ひとつの建物を見上げる。
「主殿。あれをご覧ください」
視線の先にあったのは、大きな建物。扉は石造り、上階の壁には風化した彫刻が施されている。その上には、崩れかけながらも『知』を象徴するような開いた書の装飾。
「図書館?」
「はい。どうやらこの街の知識を保管していた施設のようです。建物の規模から察するに、街の中心に近い場所だったのでしょう」
「入ってみよう。なにか手がかりが残ってるかもしれない」
俺はそう言って歩を進めた。
無人の街。滅びの匂い。
それでも、この場所に何が起きたのかを知らなければ、進むことすらできない気がした。
知ることは、恐ろしい。だが、知らなければ、誰かの死も、想いも、何一つ報われない。
図書館の扉を、ゆっくりと押し開いた。
内部はひんやりとして、なおかつ、静かだった。
次回更新予定:本日の19時頃




