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31.閾値

 最後の一体を倒し終えた静奈が、魔物から大剣を引き抜く。その大剣には大量の血や肉が滴り、どれだけの魔物を屠ってきた中を物語っていた。


 白霧が晴れたその地に、もう魔物の気配はいない。


 残されたのは、無数の魔物の死体と、血と、魔素に満ちた焦げ臭い空気。


 その中に立つ静奈は、肩で息をしながらも、瞳にまだ火を宿していた。


「……これでひと段落だな」


 彼女がそう言いながら大剣を鞘に収める仕草は、どこか儀式のように見えた。深く染み込んだ魔物の血が、ゆっくりと刃から滴り落ち、地に染み込んでいく。


「お疲れ様、静奈。すごい戦いだったね」

「そっちこそ、よくあの状況で魔術を成功させたな。おかげで助かったぜ」

「静奈が一人で耐えてくれたおかげだよ」


 静奈の目元に、わずかに笑みが浮かぶ。戦場の只中であっても、わずかに心を和ませるやりとりだった。


 俺は改めて辺りを見渡す。


 砂混じりの大地に、転がる魔物の死体。戦闘の熱が冷めても、魔素の濃度は相変わらず高く、空気の色すら淡く揺らめいている。


 それでも、もう苦しくはなかった。


 呼吸はしっかりと深く吸え、足元に力が入る。視界もぶれることなく、魔力の巡りも滑らかに感じ取れる。


 完全に適応したのか?


 静かに深呼吸をし、胸に手を当てる。さっきまで体内で暴れていた異物感は完全に消え、代わりに、魔素の粒子が血と共に流れているような感覚がある。


「馴染んだかな?」

「多分な。ただここは本当に何も情報がない土地だ。今は大丈夫でもあとからまたなにか不調が出るかもしれねぇ。気をつけろ」


 すると、その時。日向丸がふわりと浮かび、音もなくこちらに近づいてきた。


 警戒の光が、一瞬だけその表面に浮かぶ。


「……何か来る?」


 俺の問いに答えるように、日向丸が前方を指し示す。


 その先。砂塵の向こう、かすかに魔力の濁流が渦を巻いていた。


 魔物とは違う、もっと巨大で、禍々しい何か。


 砂塵が止まる。


 それは異常だった。風の吹き続けるこの砂丘で、何の前触れもなく、急に音が消えたのだ。


 まるで世界そのものが、息をひそめたようだった。


 燈華がわずかに耳を動かす。静奈も自然と構えを取り直す。空気の質が、さっきまでとはまるで違っていた。


「……静かすぎる」


 俺が言うと、日向丸が小さく光る。何かを感じ取っている。ノワも、いつもと違う低いうなり声を喉の奥で漏らした。


 見渡す限りの砂丘。その奥からそれは、歩いてきた。


 最初はシルエットだけだった。砂を踏み締める音も、息遣いも、何一つ感じられない。ただ形だけが、こちらに向かってくる。


 一歩。二歩。


 そして、それは姿をはっきりと見せた。


 全身を黒く滑るような外殻で覆い、頭部にはまるで仮面のような白い殻を纏っていた。目はない。だが、視線を感じる。すべてを見透かすような、冷たい眼差し。


 そして、その両腕には、骨と金属が融合したような長剣が一対。


「なんだ、あれ……」


 静奈が低く呟く。だが声が震えていた。


 それを目にしただけで、全身の毛が逆立った。魔素の塊が、形を持って動いているかのような存在。


 あれは、今までの奴らとは違うそれは異質の象徴だった。


 燈華が前に出るが、刀を構える指先が微かに震えている。


「……主殿。警戒を」


 今までに感じたことのない緊張感が、喉の奥に詰まっていた。


 その存在は、俺たちの数十メートル手前で立ち止まった。


 何も言わず、何もしてこない。ただ見ている気配だけが、こちらに突き刺さる。


 砂がざわりと揺れる。


 一瞬だった。足音も気配もなく、やつの姿が消えた。


「……来るっ!」


 その声と同時に、背後から衝撃音。日向丸の光壁が軋み、亀裂が走る。


 速度が違う。気配も、音も、何もかもを消して背後に回り、振り返った時にはもう標的を変えていた。


「ッ……!!」


 反応した静奈の剣が、その斬撃をギリギリで受け止めた。


 だが衝撃で足元の砂が吹き飛び、静奈が十メートル近く後方に弾かれる。


「っぐ……!なんだこいつ……!さっきまでの魔物とはまるで違う!」


 剣と剣が激突しただけで、魔力が弾け、周囲の砂が黒く焦げる。ひと振りひと振りが、ただの攻撃ではなく、呪いにも似た災厄そのもの。


 その音すらも置き去りにする異次元の速さを前に、自然と汗が滲む。


 魔素の渦。濃度。気配。


 この砂丘の中心にいたのは、ただの魔物ではなかった。理すらも捻じ曲げてくる。


「燈華、攪乱頼む!ノワは燈華と同期して!」

「了解!」

「了解デス!」


 燈華が再び刀を構え、魔術紋を発動しながら敵の死角へと回り込もうとする。しかし敵はまるで最初からすべてを見通していたかのように、鋭い足さばきで旋回し、魔術紋が完成する前に燈華へ斬撃を放つ。


「燈華!」


 俺の叫びに応じるように、日向丸が緊急展開した魔法壁が斬撃を受け止めるが、魔法壁がひび割れていく。あと一瞬、遅れていたら。


「これ、まじでやべぇな…」

「こんな化け物までいたのか…」


 俺はそう言って刀を構え直す。全身に魔力を巡らせる。


 日向丸の結界が砕け、燈華がかろうじてかわした斬撃の余波で、砂嵐が一気に吹き飛ぶ。


 俺は動けなかった。


 敵の動きが見えない。気配も、予兆も、何もない。ただ“結果”だけが遅れて届く。誰かが飛ばされ、誰かが倒れる。俺はそのたびに追いかけるだけだ。


 今もまた、敵は燈華を狙っていた。


 その視線の先にいるのがわかった。けれど、それにどう対処すればいいのかわからない。


 刀を構える手が震える。俺が斬れば、それは届くのか? この化け物相手に、俺の一撃が意味を持つのか?


「……!」


 目の前が、暗くなった。


 敵が跳躍した。鋭く、早く。光すら裂く速度で俺の元に降りてくる。


 日向丸の光壁はもう張れない。燈華と静奈は俺に向かって何かを叫ぶが、聞こえない。


 終わる。死ぬ。理解ではなく、確信があった。


 それでも、目は、閉じなかった。


 ただ、敵の斬撃が自分の胸元を断ち切る瞬間を、呆然とまっすぐに見つめていた。


 その時だった。


 世界が止まった。


 ……いや、止まったわけじゃない。


 ただ、すべてがゆっくりになったのだ。


 風の流れ。砂粒の舞い。敵の刃が軌跡を残して迫る速度。


 すべてが、まるで水中で動いているような、粘性を帯びた動きに変わった。


 耳鳴りと共に、脳のどこかが熱を帯びる。


 これは死の直前じゃない。生きたいと願った瞬間に訪れる、閾値(しきいち)だったんだ。


 刀が自然に動く。


 構えでも、型でもない。ただ、生きるために、刃が軌道を描く。


 敵の剣と、俺の刃が交差した。


 火花が、爆ぜた。


 速度が戻る。世界が現実の速度に追いついた時、敵の軌道がほんの少しだけ逸れていた。斬撃が俺の肩を掠め、血が吹き出す。


「っ……ぐ、あぁ!!」


 けれど、その一歩を生き延びた。そして俺は、読めた。今の軌道、気配、流れ。


「……見える!」


 全身の毛穴が開くような感覚。風の流れ、敵の呼吸、魔素の流れ全てが脳に直接届く。


 その隣に、燈華が並ぶ。


「今の…主殿、一体何が?」

「わからない、でももう足手纏いにはならない!」


 敵が振りかぶる。前と同じ速さ。でも今は違う。怖くない。見える。今度は受けられる。


 刀を構え、踏み込む。振り下ろされる異形の刃。それを横に弾き、俺は敵の懐に入る。


 それと同時に意図を汲み取った燈華の刀が閃く。俺が押し込んだその瞬間、燈華が敵の膝に一閃を浴びせた。硬質の外殻が軋み、ほんのわずかに膝が折れる。


 敵の動きが乱れ、その一拍。静奈が突撃する音が、地響きのように響いた。


「ナイスだ透真!」


 巨大な大剣が、敵の側頭部を打ち抜いた。


 敵が吹き飛ぶ。


 砂丘を砕きながら十数メートル後方へ転がり、ようやく動きが止まる。


 だが、まだ完全に倒れたわけじゃない。立ち上がる素振りすらある。


 でも、確実に傷を負わすことができたこの一歩は、俺たちにとってかなりでかいもののはずだ。

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