その九十八
僕は磐神武彦。大学一年。
入学以来、様々な事があったが、同じ外国語クラスの長石姫子さんとのわだかまりは、僕にとって非常に重いものとなっていた。
その事については、彼女の都坂亜希ちゃんともいろいろと話し合ったが、
「関わりにならない方がいいわ」
と言う亜希ちゃんの主張に対し、
「このままだと僕もずっと嫌な思いを続ける事になるから、何とかしたい」
と珍しく僕は違う事を望んだ。
「そうね。武君の言う通りかも知れない」
最初のうちは難色を示した亜希ちゃんも、僕の気持ちを理解してくれて、同意してくれた。
「まさかと思うけど、長石さんと仲良くなろうなんて思っていないわよね、武君?」
亜希ちゃんは冗談めかしてそんな事を言ったが、僕には冗談に聞こえなかった。
その日、僕は外国語クラスの教室で、長石さんが来るのを待った。
長石さんは僕が口をきかなくなってから、お化粧も控えめになり、服装も大人しいものになった。
胸の谷間も、ムチムチの太ももも封印したのだ。
あ、いや、別にそれが寂しい訳じゃないけど。
長石さんなりに、僕の態度がショックだった現れかも知れない。
時折、彼女の幼馴染の若井建君が僕を睨みつけている事があったけど、そのたびに彼は長石さんに窘められ、引き下がっていた。
「おはようございます」
僕は長石さんが入って来ると同時に声をかけた。
長石さんばかりでなく、その場にいたクラスの皆がびっくりして僕を見た。
僕と長石さんの事は、皆が知っていたからだ。
「毎日、心苦しくて、いつ切り出そうかって、ずっと悩んでいたんです。今までごめんなさい」
僕は長石さんに頭を下げた。
あれ? 無反応?
変に思い、顔を上げる。びっくりした。
長石さんは声を出さずに泣いていたのだ。
涙がポロポロと大きな目からこぼれ落ちている。
「わわ、泣かないで下さいよ」
僕は気が動転してしまった。
「私こそごめんなさい。本当にごめんなさい」
長石さんはハンカチで顔を覆い、頭を下げた。
「磐神君、ホントにいい人ね。ますます好きになっちゃいそう」
長石さんは泣き笑いしながら言った。僕は思わずビクッとした。
「心配しないで。貴方と彼女の間に割り込むのはもう止めるわ。無理だって、よくわかったから」
長石さんは苦笑いして続けた。
「そ、そうですか」
僕は少しホッとして応じた。
「もし良かったら、お友達でいてください」
長石さんは顔を赤くして言った。ここで断ったら、僕が悪者だ。
「はい。これからもよろしくお願いします」
「磐神君!」
長石さんはバッと僕に抱きついて来た。
ムギュウッと柔らかいものが押し付けられ、僕の心臓は高速で動き出した。
姉より大きいかな、なんて思ってしまう。 バカだな、僕って……。
こうして、わだかまりを解いた僕は、清々しい気持ちで席に着いた。
良かった。ずっと関わり合いにならないより、この方が絶対にいいよ。
決して、長石さんの巨乳のせいではない……。多分……。
ごめん、亜希ちゃん。
そして、ランチタイム。僕は亜希ちゃんに関係修復成功の報告をした。
「何だか嬉しそうね、武君」
ほんの少しだけど、亜希ちゃんの機嫌が悪い気がする。
「そ、そんな事ないよ。同じクラスの人とずっと会話なしで過ごすのって、ストレスになるから、ホッとしたんだよ」
「ふーん」
亜希ちゃんはニヤニヤして頷く。面白がられているのだろうか?
「実はね、若井君から話を聞いたの」
「え?」
何だ? まさか、長石さんが僕に抱きついた事?
「長石さんが、若井君の告白に答えてくれたんだって」
「え?」
何だ、そうなんだ。二重の意味でホッとする。
亜希ちゃんは嬉しそうだ。長石さんが僕を狙わなくなるのがわかったからだろうと思うのは、僕の欲目だろうか?
「ずっと落ち込んでいた長石さんを励まし続けていたら、長石さんがようやく素直になってくれたって言ってたわ」
「素直?」
僕はキョトンとした。亜希ちゃんはクスクス笑って、
「若井君て、結構自惚れ屋さんみたいなの。長石さんは、本当は若井君の事が好きなのに、素直じゃないので言わなかっただけだと思っていたみたい」
「ハハハ」
笑うしかない。まあ、あれだけのイケメンだから、今まで相当モテていたんだろう。だからこそ、自分の思いに答えてくれない長石さんが信じられなかったのだろうな。
「でも良かった。武君が長石さんに誑かされなくて」
亜希ちゃんはニコッとして言う。
僕はまた笑うしかなかった。
そして、ランチタイムが終わり、僕達は次の講義がある小ホールへと向かった。
それは、その途中の歩行者回廊での出来事だった。
「わ!」
僕と亜希ちゃんは思わず叫んでしまった。
若井君が、女の子に平手打ちをされたのだ。
その子は、亜希ちゃんと同じ外国語クラスの橘音子さんだ。
亜希ちゃんの話だと、若井君に気があるらしい。
二人の周りには人だかりができ、呆然としている若井君、そして、そこから駆け出す橘さん。
この後、二人共僕達と同じ講義を受けるはず。どうするんだろう?
結局、次の講義には若井君と橘さんは来なかった。
そればかりか、長石さんも。
怖いなあ。想像したくない。
でも、しばらくして、長石さんだけは小ホールに現れた。
取り敢えず、最悪のシナリオは回避したのだろうか?
原因が何なのかわからないし、長石さんが関わっているのかもわからないけど。
姉がいたら、
「ねえ、どうしたの?」
とすぐ訊いているだろうな。こういうの大好きだから。
その日のカリキュラムを無事終え、僕と亜希ちゃんは家路に着いた。
今日はバイトがないので、亜希ちゃんと一緒に帰る。
電車は空いていたけど、二人でドアのそばに立って話をした。
「だーれだ?」
ある駅でドアが閉まると同時に、誰かが僕の目を塞ぐ。
そんな事をするのはこの世に一人しかいない。
「姉ちゃん、小学生みたいな事、やめてよ」
「ハハハ」
手を振り解き、姉を見る。嬉しそうな顔をして、僕を見ている姉。
何を考えているんだろう?
「こんにちは、武彦君」
姉の同級生の藤原美智子さんも一緒だ。
「こ、こんにちは」
僕は慌てて挨拶を返した。
「こんにちは」
亜希ちゃんも藤原さんに挨拶する。
「相変わらず、ラブラブだな、武」
姉が恥ずかしい事を大きな声で言う。ちょっとムカついたので、
「あ、憲太郎さんのお母さんだ」
と脅かす。お姉さんの沙久弥さんとは打ち解けたので、今度は最終兵器「お母さん」を投入なのだ。
「え? ど、どこ!?」
面白いほど狼狽える姉。クスクス笑う藤原さんと亜希ちゃん。
そして、それが嘘だとわかり、拳骨をもらう僕。
平和なんだろうな、僕達。