その九十七
僕は磐神武彦。大学一年。
気がつくと、すっかり梅雨空。目まぐるしく変わって行く周囲に取り残されたかのように、僕はポツンと草原に立っていた。
「あれ? どこだ?」
僕は周囲を見渡す。しかし、見えるのは目に映える緑だけで、他には何も見えない。
「やっと二人きりになれたね」
後ろから女性の声がした。
さっきまで、誰もいなかったはずなのに。
僕はギクッとして身を強張らせる。
「何緊張してるの、武君?」
それは僕の彼女の都坂亜希ちゃんの声だった。
後ろからギュッと抱きしめられる。
おお。亜希ちゃんの柔らかいのが、その……。
汗が出て来た。心臓が壊れそうなほど早い。
「武君、する?」
「え?」
する? するって、何を? いや、何でこんな草原の真っ只中で?
「いや、僕はその、えーと……」
気が動転している僕は、シドロモドロになりながら言葉を探す。
「うりゃ!」
亜希ちゃんはいきなり僕を裏投げ(柔道の技を参照してね)した。
「いてて!」
僕は頭をどこかにぶつけた。凄く痛い。
「何するの、亜希ちゃん?」
頭を撫でながら亜希ちゃんを見上げると、何故かそこには姉が仁王立ちしていて、周囲の光景はいつの間にか草原ではなく僕の部屋になっていた。
「なーにが亜希ちゃん、だ。寝ぼけ男め!」
姉は僕の頭を小突いた。
「日曜だからって、気が抜けてるんだよ! 姉ちゃんと亜希ちゃんを間違えるなんて、お前はどこまでエロい奴なんだ?」
「ええ?」
何でそこで「エロ」が出て来るのさ?
「バイトに遅れそうだから起こしに来た優しい姉に抱きつくなんて、変態だぞ」
姉は顔を赤らめて言った。
「えええ!?」
僕は仰天した。いや、抱きついたのはそっちでは?
「ウダウダ言ってないで、早く起きろ!」
「ぐええ!」
腹を踏まれた。
「大袈裟な奴だな、全く」
姉はプリプリしながら、部屋を出て行った。
何なんだよ、全く。
時計を見ると、まだ朝の六時。
勘弁してよと思った。
いつまでも階下に降りて行かないと、また襲撃されると思った僕は、慌てて階段を下りる。
「おはよう」
母がいるつもりで、僕はキッチンに行った。
「あれ?」
しかしそこにいたのは、某うさぎの絵の入ったエプロン姿が妙に可愛い姉だ。
「姉ちゃん、母さんは?」
僕は周囲を見回しながら、尋ねた。
「母さんは会社の研修旅行。ホントは行かないつもりだったらしいんだけど、たまには行ったらって姉ちゃんが行かせたの」
「そうなんだ」
僕はそのまま洗面所に行こうとした。
「こら、武、姉ちゃんが朝食の用意してるんだ、少しは手伝え」
「え?」
なるほど、だから僕を起こしに来たのか。
「ちょっと待ってよ。顔くらい洗わせて」
「わかった」
僕はまさしく光の速さで顔を洗ってキッチンに戻った。
そうしないと、また姉が不機嫌になるからだ。
「何すればいいの?」
僕は手を洗ってから尋ねる。
「野菜を洗って、サラダを作って」
「わかった」
こうやって、姉と二人で朝食の準備するのって、小学校以来かも知れない。
新鮮なレタスに包まれたポテトサラダとカリカリのベーコンがついた目玉焼き、そしてきつね色のトースト。
牛乳を大きめのグラスになみなみと入れる。
オニオンスープは市販のものだ。
「いただきます」
僕は姉と声を揃えて言った。
「武、その後、エロ女はどうした?」
姉がトーストを大きな口で食べながら言う。
エロ女とは、大学で同じ外国語クラスの長石姫子さんの事だ。
しかし、そのあだ名はちょっと可哀想な気もする。確かに服装とかお化粧はそんな感じだけど。
長石さんとは、あの一件以来一言も口をきいていないけど、何だか元気がないみたいで、気の毒になって来ている。
そこまで怒る事はなかったのかなって、思ってしまうのだ。
まあ、長石さんと話すと、亜希ちゃんと同じ外国語クラスの若井建君が怖いから、今のままの方がいいかも知れないけど。
「話をしていないから、何にもないよ」
「そうか」
姉はグラスの牛乳を一気に飲み干した。
「それならいいんだけど。また妙なチョッカイ出して来たら、姉ちゃんに言うんだぞ。話をつけてやるから」
姉は真剣な表情で僕を見て言った。
「そこまでしてくれなくていいよ」
そう言えばいいのかも知れないが、そんな事を言ったら、余計ややこしくなるのが目に見えているので、
「うん」
とだけ答えておく。姉の気持ちは嬉しいんだけどね。
朝食がすみ、洗い物を押し付けられた僕。姉は洗濯をしに行ったみたいだから、文句も言えない。
流し台の隅々まで奇麗にしないと怒られるので、顔が映るくらいピカピカにした。
それはそれで気持ちがいい。何だか誇らしい気分だ。
「姉ちゃん、出かけるよ」
「車に気をつけてね、武君」
姉はまた似てない亜希ちゃんの物真似をして言う。
「似てないよ、全然」
僕はそう言って玄関を出た。
駅に向かって歩き出すと、亜希ちゃんが庭に出て、如雨露でプランターの花に水をあげていた。
「おはよう、亜希ちゃん」
「あ、おはよう、武君」
亜希ちゃんは白のワンピース。素足にサンダルが可愛い。
清潔感と、ほんの少しの色気が合わさって、朝から悩殺されそうだ。
「バイト?」
「うん」
「頑張ってね」
「うん」
手を振り合いながら別れる。
おっと。朝の夢を思い出しかけたが、顔が火照りそうなので何とか頭から追い出す。
さあ、バイト、頑張ろう。
今日は梅雨の晴れ間だ。