その九十六
僕は磐神武彦。大学一年。
この前、僕の彼女の都坂亜希ちゃんと過激なキスをした。
お互いの舌を絡ませる、ディープキスだ。
僕は亜希ちゃんの積極的な行動に驚きつつも、恍惚とした、何とも言えない時を過ごした。
亜希ちゃんがその後に言った、
「ここまででいいの?」
の意味は、その時点では謎の言葉だった。いや、本当に。
そして翌日。
僕と亜希ちゃんはいつも通り駅へと向かい、電車に乗る。
電車はいつも通り混雑していて、僕は亜希ちゃんを庇うようにして立つ。
「武君」
亜希ちゃんは僕をジッと見つめて、身体を寄せて来る。
どうしたの、と尋ねたいが、怖くて訊けない。
亜希ちゃん、昨日のあのキス以来、また更に積極的だ。
僕は心臓の鼓動を聞かれるのではないかと思うほど、ドキドキしていた。
何とか無事、大学に到着した。
最初の授業は、第二外国語のドイツ語。
クラスは英語と同じなので、亜希ちゃんとは離れ離れ。
「また後でね」
亜希ちゃんは手を振りながら、隣の教室に入って行く。
僕は亜希ちゃんの「また後でね」を深読みしてしまい、顔が火照るのを感じた。
「磐神君」
久しぶりに、長石姫子さんが話しかけて来た。
僕は思わずピクンとして、彼女の顔を見た。
「今日の彼女、どうしたの? 妙に積極的だったわね」
長石さんは、ニコニコして言った。
「え?」
僕は驚いた。亜希ちゃんの変貌に、長石さんが気づいている。
「そっかあ、とうとうしたのね、磐神君達も」
「した?」
僕はキョトンとした。したって、何を?
え? まさか長石さん、僕と亜希ちゃんがキスしているのを見ていたの?
「とぼけちゃってえ。恥ずかしがってるの?」
長石さんは僕のすぐ前の席に座って続ける。
「そうかあ、じゃあ、私の言葉が、きっかけになったのね」
一人で嬉しそうにしている長石さん。意味がわからない僕は、
「どういう事ですか?」
と尋ねた。長石さんは、ようやく僕が本当に話を理解していない事に気づいてくれたようだ。
「あれ? 違うの?」
「違うって、何がですか?」
僕は声を落として訊いた。すると長石さんも声を低くして、
「私、てっきり磐神君と彼女がHしたのだと思ったんだけど」
「えええ!?」
僕は思わず大声を出してしまった。
教室にいた全員が、一斉に僕を見た。
でも、僕には今そんな事はどうでも良かった。
長石さんの聞き捨てならない言葉。
「彼女とHしたのだと思った」
何だ、それ? どういうつもりでそんな事を口にしたんだ、この人は?
そんな事を想像するのもどうかと思うけど、それ以上にそんな事を僕に言うなんて、この人、おかしいんじゃないか? 無性に腹が立った。
「何を根拠にそんな事を言うんですか、長石さん?」
いつになく強い口調で、僕は長石さんに問い返していた。
その僕の言葉の強さに驚いたらしく、長石さんは目を見開いて固まっている。
「貴女の事、この前、少し良い人だと思ったけど、取り消します」
僕は席を立ち、長石さんから離れたところに座った。
「磐神君、あの……」
何か言い訳をしようとして立ち上がった長石さんを無視して、僕は鞄から教科書を取り出した。
長石さんもチャイムに気づき、席に戻った。
何となく想像がついた。
亜希ちゃんの異変。それはやっぱり長石さんがきっかけなんだ。
だからここ数日、亜希ちゃんの様子がおかしかったんだ。
それにしても、長石さんを見損なった。
僕と亜希ちゃんを仲違いさせようとしているという話は、嘘か本当かわからない。
でも、長石さんが、姉に似ているなんて思ったのが悔しい。
姉に申し訳ない。
全然似ていない。
姉も、人の都合を考えない理不尽な行動をする事はあるけど、あの人ほど恥知らずじゃない。
生まれてこの方、人を嫌った事はないけど、長石さんの事は嫌いになった。
もう話したくもない。
ドイツ語の授業が終わると、僕は長石さんと目を合わせないようにして教室を出た。
そして、亜希ちゃんを見つけると、
「行こう、亜希ちゃん」
といつもとは反対側にある階段を目指す。長石さんに会いたくないからだ。
「どうしたの、武君? こっちだと、遠回りだよ」
亜希ちゃんはびっくりしたように僕を見ている。
「いいんだ。こっちから降りよう」
僕は亜希ちゃんの手をしっかり握りしめ、廊下を進んだ。
そして、ちょっと遠回りして、中庭に出た。
そこからはいつも通りだ。
亜希ちゃんのお弁当を二人で食べる。
「おいしかった、武君?」
亜希ちゃんが不安そうな顔で尋ねる。僕は無理に笑顔を作って、
「おいしかったよ」
「本当に?」
亜希ちゃんの問いかけに僕はハッとした。
いけない。僕は長石さんに腹が立つあまり、亜希ちゃんにまで嫌な顔をしていたんだ。
「もちろんだよ。ごめんね」
唐突な謝罪に、亜希ちゃんはますます驚いている。
僕は謝った後、長石さんに言われた事を亜希ちゃんに話した。
亜希ちゃんは目を見開いた。そして、
「そっか、長石さん、武君に話しちゃったんだね」
と言って、その言葉の理由を話してくれた。
僕は赤面した。
亜希ちゃんとその、えーと。
正直、そんな事、考えた事もなかった。
小さい頃からずっと一緒で、ずっと好きだった事に気づいて、付き合い始めて。
ずっと今のままで、なんて思っていた。
「男ってね、いつまでもお預けさせてる女には、愛想をつかす生き物なのよ」
長石さんが亜希ちゃんに言った言葉は、真実かどうかは僕にはわからない。
でも、同級生の男共の話を聞く限りでは、多分真実なのだろう。
僕は亜希ちゃんにそういう感情を抱いた事はない。
もしかして、それは失礼な事なのかも知れないけど、本当の事だ。
「僕は、亜希ちゃんにお預けさせられてるなんて思った事ないよ」
爆発しそうなくらい熱い顔を扇ぎながら、何とかそう言った。
「ありがとう、武君」
亜希ちゃんはニコッとして応じてくれた。
お互い、楽になれた気がする。
「大好きだよ、亜希ちゃん」
「私も大好きだよ、武君」
僕と亜希ちゃんは、中庭の木陰でキスをした。
軽いキスだったけど、今までで一番嬉しいキスだった。
こうして、元に戻れた僕達は、いつも通りに家路に着いた。
「あ」
亜希ちゃんがホームを歩いていて何かに気づく。
「え?」
僕は亜希ちゃんの視線の先を見る。
そこには、姉がいた。
以前会った、同級生の藤原美智子さんと一緒だ。
二人は僕達には気づいていないようで、何かを話しながらこちらに近づいて来る。
「いつも守られているのね、武君は」
亜希ちゃんがニッとして言う。僕はドキッとして、
「ち、違うよ! 偶然、偶然だよ! 亜希ちゃんは心配しなくて大丈夫!」
すると何故か亜希ちゃんはクスクス笑い出した。
「え? 何? 何がおかしいの、亜希ちゃん?」
僕は意味がわからず、亜希ちゃんに尋ねる。でも、亜希ちゃんは笑って答えてくれない。
「ねえ、亜希ちゃん」
僕が更に訊こうとすると、
「しつこいよ!」
といきなり後ろから頭を殴られた。
「え?」
驚いて振り返ると、いつの間にか、姉と藤原さんがそこにいた。
「ね、姉ちゃん!」
姉は動揺する僕の口を横に引っ張り、
「この口が亜希ちゃんとキスしたのか!」
などととんでもない事を言い出す。亜希ちゃんも赤くなっている。
「美鈴、やめなさいよ、恥ずかしい」
藤原さんはそう言ったが、止めてくれるつもりはないらしい。
ああ。どうしてこうなの?
そして、長石さんとはどうなるのだろうか? 心配だ。