その九十五(姉)
話は少し前に戻ります。武彦が大学に通い始めて間もない頃です。
私は磐神美鈴。大学四年。
只今、絶賛就職活動中である。
本当は、現在アルバイトで働いている建設会社に入りたいのだが、この不景気で仕事が激減し、新規採用は見送られた。
このままずっとアルバイトでもいいかなと思ったのだが、我が愚弟の武彦の手前もあり、就活する事にした。
「姉ちゃんは楽な道を選んだ」
あいつにそんな風に思われたくないからだ。
まあ、仮に思ったとしても、絶対口にしないだろうけど。
それに今のままでは、磐神家の家計がピンチなのだ。
そして何より、私達を育ててくれた母に楽をさせたいと思っている私としては、少しでも条件の良い企業に就職したいのだ。
「ウチの親父が経営している会社に来れば?」
私の婚約者の力丸憲太郎が言ってくれたが、丁重にお断りした。
私は自分で就職先を探し、自分の力で勝ち取りたいのだ。
「さすが、美鈴さんね」
その場に居合わせたリッキーのお姉さんの沙久弥さんが言った。
何故、沙久弥さんが居合わせたのかと言うと、私がお会いしたいと言ったからだ。
以前、武彦に、
「憲太郎さんと結婚したら、沙久弥さんと二人きりなんて、いくらでもある事だよ」
と言われ、ずっと気にしていたのだ。
そして、リッキーを通じて、家に来ていただく事にしたのだ。
で、今は、私の家の居間で、三人で話している。
「何で僕も一緒なの?」
最初にリッキーにそう言われた。
「仕方ないでしょ! いきなり二人きりじゃ、堪えられないのよ!」
私は鈍感この上ないリッキーに小声で言った。
「なるほど」
リッキーは妙に嬉しそうだ。嫌な予感。
「ちょっとトイレ」
リッキーが早速仕掛けて来る。
居間には私と沙久弥さんだけ。
どうしよう? 間が持たなくなりそう……。
あ、そうだ。こんな時こそ、愚弟の話題で……。
「沙久弥さんのお陰で、武彦も志望校に入れました。ありがとうございました」
私は沙久弥さんにお礼を言った。
何を今更という感じもしたが。
「どうしたの、美鈴さん?」
沙久弥さんは不思議そうに私を見ている。
やはり、話題が唐突過ぎたようだ。よし、ここは一つ、あの作戦で。
「武彦が言ってましたよ。沙久弥さんて、本当に可愛らしい人だって」
こんな事を目上の人に言えば、普通はムッとされる。
でも、沙久弥さんは違った。
「や、やだ、そんな事ないわよ、美鈴さん。私なんて、全然可愛くなんかないんだから」
普段とは違う、酷く慌てた沙久弥さんを見た。
最初は信じられなかったが、沙久弥さんは本当に照れていた。
おお。一歩近づけた気がする。
武彦に感謝だ。
それにしても、リッキーの奴、戻って来ないな。
不審に思った私は、居間を出た。
「え?」
ふと玄関に目を向けると、リッキーの靴がなくなっていた。
えええ!?
まさか、今、この家には、沙久弥さんと私のみ?
二人っきりっすか? マジやばいんすけど……。
またドキドキして来る。
さっきは、リッキーがいてくれてるって思ってたから、何とか落ち着けたけど……。
どうしよう? このまま、沙久弥さんを居間に一人にしておけないし。
覚悟を決めて、私は居間に戻った。
「憲太郎は帰ったみたいね」
沙久弥さんは携帯電話を閉じながら言った。リッキーからメールが来たようだ。
「あの子、私と美鈴さんを二人きりにするつもりだったのね」
「はあ……」
私は何となく気まずい思いがして、頭を掻きながら沙久弥さんの前に座った。
「美鈴さん」
沙久弥さんが居住まいを正して私を見る。私はビクッとして、
「は、はい」
と姿勢を正す。沙久弥さんは微笑んで、
「私って、そんなに威圧的かしら?」
うええ。そんな直球勝負ですか? それに対して、私に答えろと?
酷だ。酷過ぎる。
「そ、そんな事はありません」
顔を引きつらせて何とか答えた。
「本当に?」
沙久弥さんは私の顔を覗き込むようにして更に尋ねて来る。
「ほ、本当ですよ。沙久弥さんが威圧的な訳ないじゃないですか」
私は苦笑いして応じた。
「それなら、良かった」
沙久弥さんはホッとした顔で言う。何だか、後ろめたい気分だ。
「私ね、道場に来る子達に、怖がられている気がするの」
沙久弥さんは寂しそうに言った。
「え?」
私はピクンとして沙久弥さんを見た。
「話し方が、美鈴さんと一緒なのよ。どこかよそよそしくて……。心を開いていないような……」
わわ。見抜かれているのか?
「わ、私は心を開いてますよ。よそよそしくなんかしてませんし」
そう言いながらも、「十分よそよそしいだろ!」と自分で自分に突っ込む。
思い切って尋ねてみる。
「その子達って、いくつくらいなんですか?」
「小学校低学年から、中学校くらいよ」
沙久弥さんはまだ寂しそうだ。
「だったら、沙久弥さんの弱いところを見せたらどうですか?」
私は更に思い切った。すると沙久弥さんは目を見開いて、
「私の弱いところ?」
「ええ。って言うか、隙ですよ。沙久弥さんは、周囲の人達に全然隙を見せないから、怖がられていると言うより、どう接したらいいのか、わからないんだと思いますよ」
私はすでに破れかぶれになっていた。こんな事を言ったら、失礼なのではと思うのをやめたのだ。
「隙?」
沙久弥さんはピンと来ていないようだ。私はとっておきの話をする。
「武彦が言ってました。沙久弥さんが方向音痴なのを知って、すごく親しみが湧いたって」
すると、沙久弥さんは頬を染めて俯いた。
「嫌だ、武彦君たら、そんな事を美鈴さんに話したりして……」
可愛い。恥ずかしがる沙久弥さん、素敵。
「それって、恥ずかしい事じゃないと思いますよ。それも、沙久弥さんの魅力の一つだと思います」
私は調子に乗って来ていた。
「そうなの?」
まだ赤い顔を上げて、沙久弥さんは私を見る。
「そうですよ。私なんか、隙だらけだから、憲太郎君に逆に注意されますけど」
私はテヘッと笑ってみせた。
「まあ」
沙久弥さんはコロコロと笑った。いつか武彦が言っていた通りだ。
こうして、沙久弥さんと私の距離は大いに縮んだ。
沙久弥さんが帰り、後片づけをしていると、愚弟が帰って来た。
また彼女の都坂亜希ちゃんとキスして来たんだろう。
ニヤニヤしている。
「お帰り、武」
「た、只今、姉ちゃん」
相変わらず私に声をかけられるとビクッとするのが癪に障るが。
でも、まあいいか。こいつのお陰で、沙久弥さんと近づけたんだから。
「お帰りィ、武君」
得意な亜希ちゃんの物真似をして、ハグする。
「な、何、姉ちゃん?」
意味がわからない武彦は驚いていた。
「たーけ君」
もがく武彦を無視して、私はハグを続けた。
ありがとうな、武。