その九十二
僕は磐神武彦。大学一年。
日曜日に、僕の彼女の都坂亜希ちゃんと一緒に、僕の母と亜希ちゃんのお母さんへの感謝を込めて、ファミレスでささやかだけど、お祝いをした。
姉も参加したけど、相変わらずいろいろと面白い事をしてくれる。
でも、とてもいい感じの母の日だった。
「武彦は将来、亜希ちゃんのお母さんの方を大事にしそうで心配だわ」
母が帰り際に言った冗談に、僕はギクッとした。
「武彦って、婿殿が似合いそうだもんね」
ビールを飲んで陽気になった姉が調子づく。
「そうですね。亜希は一人っ子だから、武彦君にお婿さんに来てもらえると、嬉しいわ」
亜希ちゃんのお母さんまでそんな事を言い出す始末。
「お母さん!」
亜希ちゃんは恥ずかしそうに窘めたが、僕は、
「都坂武彦もいいかも知れませんね」
と同調した。亜希ちゃんが少しだけ嬉しそうに僕を見た。僕は小さくVサインを出した。
そして、月曜日。
今日も亜希ちゃんと一緒に大学へと向かう。
電車は相変わらず混んでいる。
「何?」
ニコニコして僕を見ている亜希ちゃんに気づき、尋ねた。
「都坂武彦って、何かいいなって思ったの」
「そ、そう?」
改めてそう言われると、我ながら大胆発言だと思い知らされる。
だって、「都坂姓」になるという事は、亜希ちゃんと結婚するってことだから。
なんて、バカげた妄想をしているうちに、大学の最寄り駅に着いた。
「おはよう」
改札を出たところで、誰かが声をかけて来た。
声の主を見ると、若井建君だ。
バイトの帰りに呼び止められて、殴られた事を思い出した。
身じろいでしまう。
「おはよう、若井君」
亜希ちゃんが応じる。若井君は僕を全く視界に入れていないのがわかる。
「先週の英語の訳で、ちょっとわからないところがあるんだけど」
「どこ?」
若井君は僕を無視して亜希ちゃんの手を取り、歩き出す。
「……」
そのあまりに自然な動きに、僕は何も言えず、呆然とした。
結局、僕は大学までの道をずっと一人で歩いた。
亜希ちゃんは時々僕を見るが、若井君がその都度亜希ちゃんに話しかける。
誤解なのに。
僕は本当に悲しかった。
「おはよう、磐神君」
大学構内に入ると、誤解の張本人、長石姫子さんが現れた。
「お、おはようございます」
僕はまた身じろいだ。若井君に見られると、何か言われると思ったからだ。
しかし、若井君はチラッと長石さんを見ただけで、すぐに亜希ちゃんと話を始めた。
何だ? どういう事だ?
「ごめんね、磐神君。建のバカが、貴方を殴ったんですって?」
長石さんが小声で意外な事を言う。
「え? どうしてそれを?」
僕は辺りを憚るようにして尋ねる。
「あいつが、ナイト気取りで私に言ったのよ。ホント、昔からバカなのよ」
「そ、そうなんですか」
僕は苦笑いするしかない。長石さんは亜希ちゃんと歩き去る若井君を腕組みして睨みつけ、
「あのバカには、私からよく言っておいたから。今度そんな事したら、絶交だって」
「ぜ、絶交……」
嫌な響き。そこまで言ったの? 怖いなあ、長石さん。
「あいつね、昔から知ってるから、もう弟みたいな感じなの。だから、高校の時、『付き合ってくれ』って言われても、ピンと来なかった」
急に優しい顔になって話を始める長石さん。なるほど、そんな関係なんだ。
「あいつが私を異性として見ていたってわかった時、ちょっとびっくりしたの。ええ、って感じだった」
長石さん、何だかイメージ変わったな。どことなく、姉に似ている。
「だから、もう気にしなくていいわよ、磐神君。私と貴方が付き合っても、あいつには何も言わせないから」
「え?」
何故そうなる? この人、本当に姉に似ている。超マイペースだ。
「さ、行きましょ、磐神君」
長石さんは僕の右手を掴む。手をつなぐと言うより、連れ去られる感じ。
「あ」
亜希ちゃんが若井君と離れ、こちらに向かって歩いて来る。
長石さんの手に力が入る。
ひいい! 怖いよ!
「武君、行こ?」
亜希ちゃんは長石さんに会釈すると、僕をグイッと引っ張り、腕を組んで来た。
長石さんは、亜希ちゃんがそこまですると思わなかったのか、唖然としているのが見えた。
「亜希ちゃん、ごめん」
僕はすぐさま詫びた。
「悪い事してないんだから、謝らなくていいの」
亜希ちゃんは真顔で前を向いたまま言う。
「若井君を問い詰めたの。そしたら、話してくれたわ」
「え?」
亜希ちゃんの話は驚きの内容だった。
長石さんは、僕と亜希ちゃんを別れさせて、僕と付き合おうと考えたらしい。
まず、幼馴染の若井君を使って、亜希ちゃんを引き離す。
そして、自分は善意の第三者を装って僕に近づく。
それが真相なら、長石さんは本当の悪女だ。
でも、本当かな?
「若井君との事を話した時の長石さんは、そんな風には見えなかったよ」
僕は言ってみた。亜希ちゃんも若井君の話を全部信じている訳ではないらしく、
「もちろん、私も全部鵜呑みにはしてないけどね。若井君も、何だか様子が変だし」
僕は亜希ちゃんには若井君との事を話していない。でも、大学での若井君の僕に対する態度には、違和感を持っているようだ。
「巻き込まれないようにしないとね」
亜希ちゃんは僕を見て微笑んだ。僕はその笑顔にホッとし、
「そうだね」
と応じた。
そういう事で揉めたくないというのが、僕の本音だ。
その日は、それ以降若井君も長石さんも僕達に話しかけて来る事はなかった。
やっぱり、「陰謀説」が正しいのだろうか? 同級生を疑いたくないけど。
講義が終わり、駅に行く。
バイトに行くために亜希ちゃんとは別のホームへ。
「じゃあね、武君。仕事、頑張り過ぎないでね」
亜希ちゃんのその言葉は、まるで新婚さんの会話みたいだ。
「う、うん」
手を振り合いながら、通路を分かれる。
しばらく通路を進んだ時だ。
「やっぱり、一緒に行く」
え? 亜希ちゃんが追いかけて来たの?
「いいでしょ、武君?」
と僕の腕に腕を絡ませてきたのは、最近すっかりリクルートスーツが似合うようになった姉だった。
「ね、姉ちゃん!」
僕はあまりに意外な登場人物に仰天し、アタフタした。
「ああ、その子、美鈴の弟君?」
一緒にいた女性が訊いて来る。
姉の友人にしては、一見大人しそうに見える。
ストレートの長い髪、ネイビーブルーのパンツスーツ。
大きな紙袋は、企業説明会のもののようだ。
「そう。バカそうだけど、一応国立の大学生だよ」
「おお、それは凄いね」
「は、初めまして、武彦です」
僕は姉の腕を振り解きながら挨拶した。
「初めまして。お姉さんの友人の藤原美智子です」
その人は微笑んで言った。姉とは大違いな、品のある人。
亜希ちゃんとも、姉の婚約者の力丸憲太郎さんのお姉さんの沙久弥さんとも違う。
おっとりした感じだ。
誇らしそうに語る姉が恥ずかしい。
「いいなあ、弟。私も欲しかったなあ」
藤原さんはニコニコしながら言う。
「あんたんとこ、妹が三人だもんね」
姉がガハハと笑いながら言う。
「女ばっかで、父が寂しそうなのよ」
藤原さんは苦笑いした。そうか。父親って、娘ばかりだと寂しいのか。
「じゃあな、武。しっかり働けよ」
姉は僕の頭をポンと叩く。
「またね、武彦君」
藤原さんは癒し系だな。僕は会釈して応じた。
それにしても。
長石さんと若井君との関係。これからどうなるんだろう? 心配だ。