その九十
僕は磐神武彦。大学一年。
今日は大学は休み。
そう、毎年僕にとっては「書き入れ時」の一週間だ。
三歳で父を喪った僕と姉は、ずっと苦労して来た母の背中を見て育ったので、あまり我がままを言わない子供だった。
連休は、よその子達は両親とどこかに旅行に行ったり、遊園地に行ったり、動物園に行ったりしていた。
それが羨ましくなかったかと言うと、決してそんな事はなかったが、だからと言って、それが原因で拗ねたり、いじけたりはしなかった。
「ウチは貧乏なんだから、贅沢言わないの!」
幼稚園に入る前から、姉に言われて来た。
言っている姉も、きちんと理解していなかったとは思うが、僕自身、何となく、
「我慢する」
が普通になっていたのは確かだ。
僕の彼女の都坂亜希ちゃんも、僕の家の事情をよく知っているから、
「連休が明けたら、また一緒に大学に行こうね」
なんて、小学生みたいな事を言ってくれた。凄く嬉しかったけど。
という訳で、僕はこの三連休はバイト三昧。
朝からコンビニに向かう。
「おはようございます」
僕はバイト仲間に挨拶し、タイムカードを押す。
この三日間は、亜希ちゃんには申し訳ないけど、とことん働くつもりだ。
今度の日曜日は「母の日」だから。
そして、今年からは、亜希ちゃんのお母さんにも何かあげようと思っている。
大学でいただくお弁当のお礼も兼ねて。
商品の陳列をしていると、
「あ、ホントにいた」
と声がした。
聞き覚えのある声だったので、思わず振り返る。
「ヤッホー、磐神君」
そこには、胸の谷間がはっきりわかる襟の真っ赤なシャツを着て、太腿が丸出しのミニスカートを履いた長石姫子さんがいた。
「長石さん。どうしたんですか?」
僕は長石さんが一つ年上なのを思い出し、敬語で話した。相変わらず、香水の匂いがきつい。
「クラスの男子に聞いたの。磐神君、休みの日はコンビニでバイトしてるって」
長石さんは嬉しそうに言う。僕は苦笑いして、
「そうですか」
「ああん、他人行儀な言い方しないの。姫子って呼んで。それに、敬語は使わないでよ。何だか、すごく阻害されてる感じよ」
ウィンクまでされ、僕はすっかり面食らってしまう。
周囲を見ると、他のバイト仲間が訝しそうな顔で見ていた。
「す、すみません、長石さん。今、バイト中なので」
「ああ、ごっめーん。何時に終わるの?」
長石さんは全く気にしていないようだ。
「今日はこのまま六時までです」
「ええ? 一日中働くの? すっごーい! 尊敬しちゃう!」
長石さんは大きな声で言う。僕は恥ずかしかった。
「じゃあねえ。あ、そうだ」
長石さんは僕にメモ用紙を渡した。
「これ、私の携帯番号とメアドね」
「え?」
呆気に取られる僕を残して、長石さんは何も買わずにコンビニを出て行った。
「磐神君、仕事中に友人と話すのは止めてもらえないか?」
店長が事務所から出て来て言った。
「はい、申し訳ありません」
僕は頭を下げて謝罪する。
「まあ、あの子が一方的に話していたみたいだから、そんなに気にしなくてもいいよ」
店長はにこやかな顔で言ってくれたので、ホッとした。
長石さんにここを知られたのは困ったなあ。
あの人、あまり周囲を気にしない人みたいだし。
マイペースなのは、姉だけで十分なのに。
連休のせいもあって、お客さんの入りが不規則だ。
いつもなら、お昼休みや帰宅時間が忙しくなるのだけど、今日は一日中それなりに出入りが多かった。
午前中は、これから出かける人達が買い出しに来た。
スーパーはまだ開いていない時間なので、遠出の人達にはコンビニはありがたい存在なのだ。
午後は、家でゆっくりしていた人達が、小腹が空いたのか、菓子パンやスナック菓子を買って行く。
そして夕方はお弁当を買って行く主婦達が増えた。
連休は、家事を少しは休みたいのだろうか?
こうして、初日のバイトは終了し、僕はコンビニを出た。
「おい」
どこかで聞いた事がある声。この声は?
振り返ると、思ったとおり、若井建君がいた。
「お前、何とぼけて姫子と会ってるんだよ?」
いきなり若井君に襟首をねじ上げられ、路地裏に連れて行かれた。
「な、何の事?」
僕は意味がわからずに尋ねた。
「今日、姫子が、お前がバイトしてるコンビニに来ただろう? 友達が見たって、メールくれたんだよ」
若井君は更に僕の襟に力を入れる。
「長石さんがコンビニに来たのは確かだけど、僕が呼んだんじゃないよ」
僕は若井君の手を掴んで言い返した。
「言い訳するんじゃねえよ! 姫子にチョッカイ出したら、只じゃ置かないって言ったはずだ」
若井君の怒りは収まりそうにない。どうしたらいいんだろう?
そう思った瞬間、若井君の拳が僕の左頬を殴った。
「う!」
僕は何の防御もできず、そのまま後ろに倒れた。
「今日はこれくらいにしておいてやる。この次また、姫子に近づいたら、こんなもんじゃすまねえぞ」
若井君は捨て台詞と共に唾を吐きかけ、立ち去った。
僕は左頬を撫でながら立ち上がった。
「あまり痛くないな」
どうしてだろう? 不思議に思いながら、家に帰った。
連休中は、姉も夜間大学が休みなので、家にいた。
途中、駅のトイレで顔を見たら、少し腫れていたので、姉に見つからないようにしようと思い、
「只今」
と小声で言うと、僕はサッと階段を駆け上がった。
「待て、武!」
しかし、見つかってしまった。
「何をコソコソしてるんだよ?」
姉は「こっちに来い」と手招きしている。
僕は肩を落とし、階段を降りた。
「お前、殴られたのか?」
姉はすぐに顔の腫れに気づいた。
「転んだんだよ」
という言い訳は、姉には通用しない。だから、
「うん」
素直に返事をした。
「誰に?」
「大学の同級生に」
姉は段々怒りに燃えて来たようだ。
「どうして?」
「その人の好きな人と僕が話したから」
僕は姉の形相が怖くなった。
「何だ、それ? 教えろ、そのバカの名前を! お前が誰の弟なのか、教えてやる!」
姉は超進化しそうな勢いだ。
「いいよ、姉ちゃん」
「何でだよ!?」
姉は僕の襟をねじ上げる。それじゃあ、若井君と同じなんだけど。
「自分で解決する。もう僕、大学生だよ」
すると姉は襟を放し、ニコッとした。
「そうか。わかった。偉いぞ、武」
頭を撫でられた。子ども扱いだよ、これじゃあ。
「無理するなよ、武」
「うん」
無理はしない。でも、自分で何とかしないと、解決にはならない気がする。
ああ、そうか。
若井君に殴られたのがあまり痛くなかったのは、姉のパンチを食らい続けていたからだ。
姉のに比べれば、若井君のは大した事なかったな。
って事は、姉のパンチって……? これ以上想像するのはやめよう。
それにしても、長石さん、明日も来るんだろうか?
若井君より、彼女の方が厄介な気がするよ。