その八十七
僕は磐神武彦。
大学生活がスタートし、毎日が急に忙しくなった。
高校の時までは、けっこうギリギリまで寝ていても何とかなったが、今はそうはいかない。
何しろ、家から大学まで、最低でも一時間はかかるのだ。
電車の混雑具合、ホームの人混みによっても、ある程度余計な時間がかかる。
しかも、最近になってわかったのだが、僕って案外人混みが苦手みたい。
電車の中が混んでいるのが見えると、尻込みしてしまう。
それに比べて、僕の彼女の都坂亜希ちゃんは全然気にならないみたいだ。
むしろ、女性の方が混雑している車内は嫌だと思うのだけど。
「そんな事を気にしていたら、通学なんてできないよ、武君」
そう言われ、恥ずかしくなった。
「でも、ありがとう。私に気を遣ってくれて」
亜希ちゃんは、僕が自分の事を思って、
「混んでるから、次の電車にしよう」
と言ったと思ってくれたようだ。
何だか、申し訳ない気分だ。
そう言われたからには、僕も頑張らないといけない。
混雑している車両に乗り、亜希ちゃんを庇うようにして立つ。
それでもグイグイ押されてしまう事もあり、亜希ちゃんと身体が密着。
「ご、ごめん」
僕が謝ると、亜希ちゃんは微笑んで、
「どうして謝るの、武君? 私は嬉しいよ、武君と触れ合えて」
鼻血が出そうになった。
そんな苦労(?)をしながら、何とか大学に着く。
今日の最初の授業は外国語。
早速亜希ちゃんと離れ離れだ。
亜希ちゃんは社交性抜群だから、どんどん新しい友達を作っているみたいだけど、僕はそう簡単に友達を作れない。
「『いわかみ君』でいいのかな?」
そんな僕に最初に話しかけてくれたのが、同じ外国語クラスの長石姫子さん。
外国語の授業の時、代返防止のために学生証(ICチップ付)を机の上に出すので、それを見たのだ。
「あ、『いわがみ』です。濁るんです」
僕はドギマギして応じた。
だって、長石さん、美人な上に凄く色っぽいんだもん。
確か、一浪して合格しているので、一つ歳上なのだけど、でも大人っぽい人だ。
髪は茶髪でロングで縦ロール。服装も派手で、胸元が……。コホン。
香水も付けているらしく、ちょっと咽せるくらいの匂いがして来る。
「ああ、ホントだ。ごめんね」
学生証のローマ字の箇所を見て、ニコッと微笑む長石さん。
彼女はそのまま、僕のすぐ前の席に着いた。
うわあ。今日はこの香水地獄と戦うのか……。
亜希ちゃんも姉も、香水を全く付けた事がない。
だから、僕は香水に免疫がないのだ。
というか、強烈な匂いに弱いようだ。
おかげで、眠くはならなかったが、目眩がしそうだった。
授業が終わる頃には、僕の身体は、長石さんの香水の匂いをタップリと吸っていた。
亜希ちゃんに何か言われちゃいそう。
「磐神君、お昼、一緒に食べない?」
廊下に出ると、長石さんが声をかけて来る。
「あ、いや、その……」
僕が返答に困っていると、
「姫子、こっち!」
と長石さんを呼ぶ声が聞こえた。
反射的にそちらを見ると、さっきまで亜希ちゃんと話していたと思われる男の人がいた。
男の人は亜希ちゃんに愛想笑いをした上、手まで振った。
結構イケメンなのが気にかかるが。
亜希ちゃんは苦笑いして(僕にはそう見えた)、その人から離れる。
「はいはい」
長石さんは肩を竦め、
「またね、磐神君」
と言うと、歩いて行く。
長石さんと亜希ちゃんがすれ違う。亜希ちゃんは軽く会釈したのだが、長石さんはそれを無視した。
感じ悪いと思った。何なんだろう?
「行こうか、武君」
亜希ちゃんはニコッとして言った。
「う、うん」
僕は、長石さんが亜希ちゃんを睨みつけているような気がして、何となく不安になった。
そして、僕達はいつものように中庭にあるベンチでお弁当を食べる。
「早速、ガールフレンドができたみたいね、磐神君」
亜希ちゃんが満点笑顔でそう言ったので、危うくごはんを喉に詰まらせそうになった。
お願いだから、「磐神君」て呼ぶのは勘弁して欲しい。心臓が保たなくなる。
「が、ガールフレンドだなんて、そんな……」
僕はオタオタして言った。すると亜希ちゃんはクスクス笑いながら、
「冗談よ。武君て、香水苦手だから、ああいうタイプの女性、ダメでしょ? だから心配してないわ」
「そ、そう」
そこまで見破っているなんて、もう美人名探偵だ。
「僕、あの人嫌いだ。亜希ちゃんが挨拶したのに、無視したから」
「そうなんだ。知らなかった」
亜希ちゃんはビックリしたように言った。
そうか。亜希ちゃんも長石さんを見ていなかったんだ。
怖い。何だか、凄く怖い。
「亜希ちゃんも新しい友達ができたみたいだね」
僕は話題を変えようと思って切り出した。すると亜希ちゃん、妙に焦り出した。
「あ、え、何? どういう意味?」
目が落ち着きなく動く。どうしたんだろう?
「どうしたの?」
僕は不思議に思って尋ねた。
亜希ちゃんは声を落として理由を話してくれた。
さっき、亜希ちゃんに話しかけていた男。
名前は若井建。僕達と歳は一緒だ。
彼は長石さんと出身が一緒で、同じ高校の先輩後輩なのだそうだ。
「誤解しないでね、武君。私は別に……」
可愛いなあ、亜希ちゃん。僕が嫉妬すると思って、一生懸命説明する。
「誤解する訳ないよ。亜希ちゃんの事、僕が一番良く知ってるんだから」
「武君、ありがとう」
亜希ちゃんは目をウルウルさせて僕を見つめた。何だか照れ臭い。
その時の僕達は、もっと多くの人達が、僕らの動向を見ているなんて思いもしなかった。
そして、家路。
亜希ちゃんを亜希ちゃんの家まで送り、お別れのキス(最近、亜希ちゃんが積極的でドキドキする)をして、別れた。
「只今」
玄関の鍵が開いている。
姉がまだいるようだ。
「おっかえりー、たーけくん」
妙なテンションで、姉が階段を駆け下りて来る。
「どうしたの? やけにご機嫌だね?」
僕は後退りしながら尋ねてみた。
「アハハ、そう? そうかな?」
ヘラヘラ笑う姉。何だか、変に怖い。
「うん?」
急に姉の顔つきが変わる。
「武」
急に声のトーンも変わる。
「な、何?」
第一級警戒態勢か? 僕はいつでも逃げ出せる態勢だ。
「あんた、浮気した?」
姉が鼻をヒクヒクさせてとんでもない事を言い出す。
「う、浮気って、そんな事する訳ないだろ」
長石さんの香水の残り香がするのかと思い、服の袖を鼻に近づけたが、全然匂いはしない。
「だって、香水の匂いがするぞ。亜希ちゃんは香水付けないだろ!」
姉はいきなり僕の襟首をねじ上げた。
「誤解だよ! 外国語の授業で、前に座った人の香水がキツかったんだよ」
「ホントか?」
姉は疑い深い。
「亜希ちゃんに訊いてよ! 本当だよ!」
僕は必死に無実を主張した。
「わかった。今回は信じよう。じゃあな」
姉はそう言うと、また陽気になり、鼻歌混じりで出かけて行った。
それにしても、凄い嗅覚。
前世は犬?
本当に侮れない姉だ。