その八十六
僕は磐神武彦。 大学一年生。
幼馴染で、しかも彼女の都坂亜希ちゃんと電車を乗り継いで通学している。
毎日が不安だ。
亜希ちゃん、注目浴び過ぎ。
駅のホームで電車を待っている時も、電車に乗っている時も、周りの男達の視線が集まる。
亜希ちゃんは、別に派手な格好をしている訳ではない。
むしろ、
「もう少し可愛い格好してもいいのでは?」
と僕が心配してしまうくらい、地味な服装。
まるで修道院のシスターのようだ。
いや、シスター達がどんな服装なのか、はっきり言って記憶があいまいだけど。
白のブラウスに黒系のジャケットで、スカートも黒系。靴も黒の革靴。
スカート丈も、
「そんなに長くなくても……」
と言いたくなるくらいの長さ。亜希ちゃんは脚が長いから、それでも膝下は結構見えてるけど。
飛びっきり可愛い女の子が、そういう服装をすると、余計可愛く見えるという反動効果だろうか?
「父がうるさいの」
亜希ちゃんは苦笑いして、僕にこっそり教えてくれた。
「高校は制服があるから、服装が乱れる事はないけど、大学生は制服がないからって」
「そうなんだ」
僕は、お父さんの意見に賛成だ。
只でさえ、亜希ちゃんは奇麗で人目を惹くのだから。
本当は可愛い服を着て欲しいけど、今は我慢するしかない。
休日に遊びに出かける時に、お洒落してもらう事にしよう。
でも、お父さんの目論みは半分外れている事も事実だ。
地味な服を着ていても、亜希ちゃんは注目されているのだから。
「その服でも、結構見られてるよ、亜希ちゃん」
僕は座席に並んで座るなり、亜希ちゃんに耳打ちした。
「違うよ、武君」
亜希ちゃんは悪戯っぽく笑って僕を見る。
「え? どういう事?」
僕はキョトンとしてしまった。
「私達が見られてるの。見ているのは、男子だけじゃないよ、武君」
亜希ちゃんの言葉に僕はギクッとした。
確かに改めて見渡すと、僕達を見ているのは男だけではない。
女性も見ていた。僕も見られてるの?
「女子達の視線を独り占めだね、武君」
「ええ?」
亜希ちゃんは思い違いをしていると思う。
女子達も恐らく、亜希ちゃんを見ているのだ。
僕を見ているのではないと思う。
ああ、卑屈になりそうだ。
そんな事を考えていると、乗換駅に到着した。
電車を降り、ホームを移動する。
ここからは私鉄だ。
それにしても凄い人。
高校まで家の近くですませていたから、通学でこれほど移動するのは初めてなのだ。
危うく亜希ちゃんとはぐれそうになりながら、僕は乗換えをすませた。
そこからは駅を三つ乗るだけなので、たちまち目的の駅に着く。
姉に言われて、一年と二年のうちに受講できる講義はなるべく単位を取得する事にしたので、時間割が結構ハードだ。
駅から、大学までのほんの数百メートルを歩く。
周りを歩いているのは、ほとんど同じ大学に行く人達。
全学で五千人程いるので、高校の時の比ではない。
受講する講義は、亜希ちゃんと全部同じにしたが、外国語だけはクラスが別なので、凄く不安だ。
「寂しいけど、我慢するね」
亜希ちゃんに笑顔でそう言われてしまうと、
「僕の方が寂しいよ」
とは絶対に言えない。
それでも、同じキャンパスにいるというだけで、幸せな気持ちになれる。
単純だよな、僕って。
外国語の授業が終わり、僕は亜希ちゃんを学部棟のロビーで待つ。
亜希ちゃんは同じクラスの人達と親しくなったようで、幾人かと一緒に歩いて来た。
その中に亜希ちゃんにチョッカイを出して来る奴がいないか、つい探してしまう。
話をしている男子はいるが、そんな雰囲気の人はいないので一安心。
ああ。嫉妬深くなっている僕。
「武君、ランチにしよ?」
亜希ちゃんはバッグの中からお弁当箱を出して言う。
「う、うん」
周囲の視線を感じながらも、僕は頷いた。
何だか恥ずかしい。
亜希ちゃんは、授業が開始されてからずっと、お弁当を作って来ている。
それがまた、見た目が可愛くて、味が絶品。
「まだほとんどは母が作ってるんだけど」
亜希ちゃんはペロッと舌を出しておどけてみせるが、多分謙遜だ。
本当はほとんど自分で作っているのだろう。
僕達は大学の中庭にあるベンチに並んで座り、お弁当を食べた。
周りを見てみると、結構そういうカップルがいる。
中には、木陰で抱き合ってキスとかしてる大胆な人達もいて、僕と亜希ちゃんは顔を見合わせてしまった。
「……したい、武君?」
亜希ちゃんが不意に話しかけて来た。
「え?」
最初がよく聞き取れなかったので、僕は聞き返した。
「キスしたい、武君?」
亜希ちゃんが耳元で囁く。
この場合はどう答えればいいのだろう?
別になどと答えれば、亜希ちゃんに悪いし、したいと答えても何だか妙だ。
僕が答えに困っていると、
「後でね。ここでは、ダーメ」
亜希ちゃんはウィンクして言ってくれた。
「そ、そうだね」
僕は内心ホッとしながらも、
(後でって、いつだろう?)
などと、不届きな事を考えてしまった。
そして、その日のカリキュラムは全部終了。
帰路に着く。
大学に行く時間は、社会人の人達の通勤時間と重なっているので、相当な混雑だったが、帰りはラッシュ時間とずれているので、それほど混んではいない。
ホームにいる人は少ない。
「何だか、毎日ピクニック気分だね」
亜希ちゃんは電車の中で呟いた。
「ホントだね」
通学に一時間以上かかるなんて、今までない事だから、亜希ちゃんの表現は違和感はない。
しかも、毎日お弁当だし。
「何か食べたいものがあったら言ってね、武君。今まで何も聞かずに勝手に作っていたから」
亜希ちゃんが言う。
「亜希ちゃんの作るものなら、何でもOKだよ」
僕は微笑んで答えた。
「ありがとう、武君」
亜希ちゃんは嬉しそうだった。
そして、黄昏時になり、亜希ちゃんを家まで送った時。
「ちょっと、武君」
「え?」
帰ろうとした僕の服の袖を引き、亜希ちゃんは玄関の脇に移動する。
次の瞬間、亜希ちゃんがスッと僕に顔を近づけ、キスをしてくれた。
ちょうど表から見えない位置なのだ。
「また明日ね、武君」
「う、うん」
手を振り合って、別れる。つい、顔がニヤけてしまう。
「何をニヤついてるんだ、武?」
家の前まで来ると、出かけるところなのか、姉が出て来てすかさず突っ込む。
「べ、別に」
姉は不審そうな目で僕を見たまま、
「スケベ」
と言うと、そのまま行ってしまった。
「え?」
何なの、「スケベ」って?
僕は首を傾げながら、玄関のドアを開いた。
気になったので、姿見を覗いてみる。
「あ」
姉の言葉の意味がわかった。唇に亜希ちゃんのルージュが付いていたのだ。
亜希ちゃん、口紅を塗ってたんだ。知らなかった。
それにしても、ジッと見ないとわからない程度なんだけど、姉って視力が鳥類並みなのでは?
怖いなあ。
これからは気をつけないと。