その八十五
僕は磐神武彦。
幼馴染で同級生で、その上彼女になってくれた都坂亜希ちゃんと同じ大学に入学できた。
去年の春には、想像すらしていなかった事だ。
しかし、喜んでばかりはいられない。
大学の学費をバイトで稼がないといけないし、授業にもついて行かないといけない。
入学が決まってから、いろいろと調べた。
その大学は東京六大学には入っていないけど国立の名門で「簡単に卒業させてもらえない」と知った。
「お前なあ、呑気過ぎるぞ」
姉に言われ、ちょっぴり焦っている。
留年とかしたら、亜希ちゃんに愛想をつかされてしまう。
留年はしなくても、卒業できない可能性も……。
ああ。段々、ネガティブな考えになって行く。
そんな憂鬱な日々の僕が、夕方バイトから帰ると、姉が恐ろしい事を言って来た。
「遅くなったけど、お前の入学祝をしよう」
「え? もうしてもらったから……」
僕はキョトンとしてしまった。
つい先日、母と姉がケーキを買ってくれて、ささやかだったけど家でお祝いしてくれたのを忘れてしまったのだろうか?
「何だ、その可哀想な子を見るような目は!?」
姉が僕の視線に気づき、仁王立ちで怒る。
「二人っきりで祝おうって言ったの、武だぞ!」
急に乙女声で、しかも顔を赤らめて言われると余計怖い。
「あ、そ、そだったね」
僕は顔を引きつらせながら応じた。
「さあ、出かけるぞ」
姉は黒のパンツスーツに着替えている。
妙に正装なのが尚の事不安だ。
「ぼ、僕はこれでいいの?」
「いいよ」
僕はトレーナーにジーパンだ。
姉は良くても、僕が嫌だよ。
「ほら、早く!」
姉は強引グマイウェイ至上主義者だ。
「いたた!」
引き摺られるようにして、僕は外に出た。
そして、姉に連れて行かれたのは、生まれてから一度も入った事がないような高級レストラン。
普通なら、僕のようなラフな格好は入店拒否されそうな店だが、何故か大丈夫だった。
「ここね、沙久弥さんのお友達のお父さんが経営者なの」
姉が嬉しそうに言う。
どういう事?
「だから、格安で、しかも顔パスで入れたの」
何だ、そういう事か。
「何だか、申し訳ないなあ、沙久弥さんにも、憲太郎さんにも」
「姉ちゃんには申し訳なくないのか?」
笑顔で言われたので、身の危険を感じた。
「そ、そんな事ないよ……」
さすがにこの店で暴れるつもりはないのか、姉は何もして来なかった。
「こういうお店には、憲太郎さんと来た方がいいと思ってさ」
「それはまた後で。今日は武君と来たかったの」
急に口調を変えて言う姉。もしかして、亜希ちゃんの物真似?
亜希ちゃんはそんなバカっぽい喋り方しないぞ。
ムカつくけど、相手が悪いので何も言わない。
「ご予約の磐神様ですね。どうぞこちらへ」
僕達は店の奥の個室に案内された。
そこで僕達は、フランス料理のフルコースをいただいた。
姉も、出て来る料理の豪華さに次第に顔が引きつり始めた。
「どうしたの、姉ちゃん?」
不思議に思って尋ねる。
「いや、聞いていた金額だと、こんな料理出て来ないはずなんだけど……」
「そうなの?」
僕も改めてメニューを見た。
シェフにお任せメニューと書かれたその冊子には、見た事も聞いた事もない名前が並んでいる。
「どうしよう、金額の桁を間違えたのかな?」
姉が涙ぐんだ目で僕を見る。
桁を間違えたなんて、恐ろし過ぎる事を言わないで欲しい。
五千円だと思っていたら、五万円て事でしょ? 謝るしかないよ。
「すみません」
姉は料理を持って来た男の人に声をかけた。
「はい」
男の人は微笑んで姉を見る。
「料理が違っていると思うのですが。私がお願いしたのは、五千円のコースで……」
うわわ。僕が想像した通りの展開になりそう。ドキドキして来た。
「料理は違っておりませんよ。ご注文通りです」
男の人は、更に微笑んで答えた。
「差し出がましいようですが、当店からのほんのささやかなお祝いの気持ちです。ご心配なさいませんよう」
僕と姉は思わず顔を見合わせた。そして、
「あ、ありがとうございます!」
と同時に立ち上がって頭を下げた。
その男の人が、沙久弥さんのお友達のお父さんだったのだ。
「ごゆっくりどうぞ」
男の人はお辞儀をして、個室を出て行った。
そこから先は、僕も姉も、嬉し涙で、どの料理もしょっぱくなってしまった。
コースを食べ終え、僕達は部屋を出た。
すると、さっきの男の人が、会計のところに立っている。
「今日はありがとうございました」
姉が慌てて近づき、頭を下げた。僕もそれに倣って頭を下げる。
「いえいえ。これからご贔屓にしていただこうという、当店の下心ですから」
男の人は笑顔でそう言った。
姉は、最初に聞いていた通りの金額を、とても恐縮しながら払った。
「ありがとうございました」
僕達はお店の人達に見送られて、外に出る。
もうすっかり夜は更けていた。
「いいお店だな」
姉は涙を拭いながら言った。僕はもらい泣きを何とか堪え、
「そうだね。いつか恩返しに来ないとね」
「うん」
姉がグイッと腕を絡ませて来る。
「な、姉ちゃん!」
ギュウッと力を入れて来たので、あそこが僕の腕にムニュッと当たった。
「さ、これからカラオケに行こう」
「ええ!?」
姉のカラオケはくどいのだ。何度でも同じ歌を歌う。
「何よお、亜希ちゃんとはカラオケ行くのに、姉ちゃんとは行きたくないの?」
口を尖らせ、甘えるように言う姉。思わずドキッとしてしまう。
「い、行くよ」
「よし!」
組んでいた腕を解いたのでホッとしたら、今度は首に巻きつけられた。
「姉ちゃん、苦しいよ……」
「うるさいよ、武君」
また亜希ちゃんの物真似? どうせ真似るなら、性格を真似てよ。
でも、心のどこかで、ちょっぴり嬉しいと思っている僕がいた。