その八十一
僕は磐神武彦。何とか、念願の志望校に合格し、ホッとした。
何せ、僕の「素敵なお姉様」である美鈴さんは、禁断症状寸前で、
「酒ーッ、さけええ!」
と、まさに叫んでいたほどなのだ。
姉は頼んでもいないのに(もしそんな事を言ったら確実に仕留められそうだが)僕が大学に合格するまで断酒していたのだ。
「もう少し遅かったら、何をしていたかわからない」
そう言いながらも、僕の頭を太鼓みたいに叩いて喜んでいた。
僕の大学合格と、大好きな酒が飲めるのと、どっちを喜んでいるのかわからないな。
そして、今日は高校の卒業式。
姉からの不確実な情報では、同級生の女子で、僕に告白する子がいるかも知れないとの事。
あまり考えられないし、考えたくもない。
僕には亜希ちゃんしかいないし、同級生のみんなもそれはわかっているはずだから。
しばらくぶりに訪れた高校は、別段変わったところはなかった。
但し、いろいろな感情が交錯しているのは確かだ。
「おめでとう、亜希。合格したんでしょ?」
亜希ちゃんと教室に入るなり、クラスメートの富谷麻穂さんが声をかけて来た。
「ありがとう、麻穂ちゃん」
亜希ちゃんは周囲に気を遣って小さく反応した。中にはまだ試験が終わっていない人達もいるからだ。
「私も何とか滑り込めたわ」
富谷さんはそんな気遣いをする気がないのか、大声で言い、大声で笑う。
「磐神君、おめでとう。亜希と一緒の大学に合格したんでしょ?」
僕が男子達と話していると、富谷さんが声をかけて来た。
今まで個人的には会話を交わした記憶がないので、ちょっとビックリした。
「あ、ありがとう、富谷さん」
僕は顔を引きつらせて応じた。僕が話をしていたのは、まだ合格が決まっていない友人だったからだ。
「あのさ、磐神君」
富谷さんは僕に顔を近づけて言った。
ドキッとしてしまう。
富谷さんて、結構派手めで、「巨乳」の噂があるので、近づかれると、緊張してしまうのだ。
「亜希相手じゃ太刀打ちできないから、諦めてるけど、一応伝えとくね」
「え?」
な、何、それ?
ハッと気づくと、亜希ちゃんが心配そうにこっちを見ている。
「磐神君、私の中で赤丸急上昇です。付き合いたいくらいよ」
「えええ!?」
富谷さんは遠慮する事なく、大声で言った。
クラスの全員が、僕達に注目したような気がする。
「でも、亜希とも友達でいたいから、それはしないけどね」
富谷さんはウィンクをして微笑む。
また不覚にもドキッとしてしまう僕。
「ああ、麻穂、抜け駆けするな!」
そこに駆けつけたのは、天野小梅さんと伊佐奈美さん。
何、何なの、一体?
「私達だって、磐神君に告ろうか悩んでたのに!」
ええええ!? もう気を失いそうなくらい驚いている。
天野さんはキャピキャピしてるけど、成績は優秀で、将来は声優になるつもりらしい。
だから男子にも人気がある。
その天野さんの衝撃発言で、僕は窮地に立った気がした。
「磐神、お前、都坂だけじゃ飽き足らず……」
男子達に不穏な空気。危険かも知れない。
「こら、逆恨みするな、モテナイ君達。磐神君を責めるんじゃないわよ」
伊佐さんが庇ってくれた。
伊佐さんは亜希ちゃんや富谷さんや天野さんと違って、ウチの姉と系統が近い。
姉御肌なのだ。しかも、弟がいる。
「チェッ、何だよ」
男子達はニヤニヤしながら席に戻った。
本気で僕を責めようとした訳じゃないようで、ホッとした。
「という訳で、私達が磐神君の事、好きなのは覚えておいてくれると嬉しい」
いつも強気な発言が多い伊佐さんが照れ臭そうに言ったので、思わずキュンとしてしまう。
「うん」
僕も照れ臭くなって、頭を掻きながら答えた。
気がつくと、亜希ちゃんが機嫌悪そうに僕を睨んでいた。
まずい。後でフォローしておかないと。
そんな事をしているうちに、卒業式の時間になった。
僕達は体育館に移動した。
「随分人気急上昇ね、磐神君」
亜希ちゃんが僕を名字で呼んだ。
嫌な汗がたくさん出る。
「冗談よ、武君。私も鼻が高いわ、自分の彼がモテモテで」
亜希ちゃんはニコッとして言い添えてくれた。
「あ、そ、そう」
それでも僕の顔の引きつりは治まらなかったけど。
ウチの学校は、卒業式には父兄は同席しない。
様々な事情を考慮したらしく、僕達が入学する以前から決まっていた。
そのせいなのか、式は淡々と進んだ。
誰も泣き出したりしない。女の先生達も無表情に見える。
只、女子達の中には、嗚咽を堪えている子が何人かいたようだ。
最後に在校生で構成したブラスバンドが校歌を演奏し、全員で歌った。
その時、とうとう我慢できなくなったのか、一人が泣き出した。
それは何と、前生徒会長だった。男子である。しかも号泣だ。
何だろう? 答辞を読んだ時も、冷静そのものだったのに。
すると彼の号泣をきっかけに、女子達の多くが泣き出した。
亜希ちゃんも、富谷さんも、天野さんも、そして姉御の伊佐さんも。
揚げ句は、先生方までも。
僕達男子は、前生徒会長の号泣を見て、むしろテンションが下がってしまい、泣く事はなかった。
泣きたくはなかったけど。
やがて式典は終了し、僕達は教室に戻った。
「今日でここともお別れだね」
亜希ちゃんが涙を拭いながら呟く。
「そうだね」
亜希ちゃんは自分の机に近づき、
「ありがとう」
と礼を言った。すると突然、僕の中の何かのスイッチが入った。
涙が止まらない。何だろう? 三年間の様々な出来事が頭の中を駆け抜けて行く。
「どうした、磐神?」
男子達が驚き、女子達がもらい泣き。
「武君?」
亜希ちゃんは不思議そうな顔をしながらも泣いている。
「ごめん、亜希ちゃん」
何だか恥ずかしくなって、無理して微笑んだ。
亜希ちゃんもそれに応じて微笑んでくれた。
しばらく、クラスのみんなで写真を取り合い、やがて解散した。
「また会おうね」
そう言い合いながら、校庭を出る。
在校生達の中には、先輩に告白する最後のチャンスと思うのか、行列を作っている女子達もいた。
「羨ましい、武君?」
それをジッと見ていた僕に、亜希ちゃんの冷たい言葉が突き刺さる。
「あ、いや、そんな事は……」
「行きましょ」
亜希ちゃんは僕の右手を掴み、駆け出す。
元陸上部のエースの脚力はまだ衰えていない。
「わわ!」
僕は転びそうになりながら、亜希ちゃんと走った。
帰宅すると、姉がいた。
「待ちくたびれたぞ、武」
すでに一升瓶を片手にしている。
まだ飲んではいないようだけど。
「今日はお前も少し飲め」
「ダメだよ、姉ちゃん、未成年に飲酒を勧めたりしたら。沙久弥さんの彼氏さん、警察官でしょ?」
姉の婚約者の力丸憲太郎さんのお姉さんである沙久弥さんの恋人の西郷隆さんは、警視庁の刑事さんなのだ。
僕もつい最近知ったんだけど。
「う……」
沙久弥さんの名前と「警察」にビビッたのか、姉は大人しくなり、一升瓶を床に置いた。
「わかった。なら、今日は一晩中、姉ちゃんのお酌をしろ」
「ええ?」
また理不尽発動だ。仕方ないか。随分一生懸命動いてくれたのだし。
それにしても、酔い潰れた姉をどうすればいいのか、そればかり気になってしまった。