その七十六(姉)
私は磐神美鈴。大学三年。もうすぐ最終学年だ。
私にはかつて、「ヘタレ選手権優勝候補の弟」がいた。
今は、あまりヘタレではない。むしろ、出来のいい弟に変貌しつつある。
「最近、武彦君、凄いよね。オチオチしてると、僕らが武彦君に勉強を教わるようになりそうだよ」
デートで立ち寄ったカフェで、私のダーリンの力丸憲太郎が言う。
「そうかなあ」
私は認めないフリをする。するとリッキーは笑って、
「相変わらず、武彦君には厳しいんだね、美鈴は」
「そんな事ないよ。私は世界でも稀に見るほどの優しい姉ですけど?」
冗談で言ったつもりだったが、リッキーに真顔で頷かれてしまった。
「そうだよね。僕がいくら言っても深酒を止めなかったのに、武彦君の大学合格のためにピタッと止めたもんね」
私は多分顔がユデダコになっていたと思う。自分でもわかるほど、熱い。
「それは、私もそろそろ酒量を控えないとって思ってたからよ」
「わかったわかった、そういう事にしとくよ」
リッキーは微笑んで言った。余計恥ずかしくなった。
「それに、私が真剣にならないと、あいつ、すぐだらけるから。人生で一度も必死になった事がないのよ」
「それはそれで凄いと思うよ」
リッキーは絶対に私ら姉弟を面白がっている。
「そんな事、あいつの前では絶対に言わないでよ。図に乗るから」
思わず真顔でお願いしてしまった。
「しないよ。それよりさ、そろそろ、弟萌え、卒業してくれない? 恋人としてのお願いなんだけど」
「え?」
ギクッとする。
リッキーの口から「弟萌え」という言葉が出たのもビックリだが、それを私に適用したのも驚いた。
「私って、そんなにブラコンに見えるの?」
神妙な顔になって、リッキーに尋ねる。リッキーは笑って、
「そんなに深刻な顔で訊かれると、答えにくいなあ」
「答えにくいって事は、リッキーはそう思ってるって事ね?」
私は言われる前に言ってしまおうと思って、先制攻撃をした。
「ブラコンじゃない姉の方が珍しいと思うよ」
「え?」
意外な返答にまたギクッとする。
「でも、沙久弥さんは違ったんでしょ?」
リッキーのお姉さんである沙久弥さんからは、微塵も「弟萌え」は感じられない。
「今はね。でも、僕が小さい頃は、随分可愛がってくれたみたい。その話をすると、あの姉が機嫌が悪くなるんだ。そういう事を言われるの、嫌みたいだよ」
「そうなんだ」
リッキーを可愛がっている沙久弥さんも想像つかないけど、機嫌が悪い沙久弥さんはもっと想像ができない。
「美鈴は、弟離れが他の人より遅いだけだと思う」
「そうなの?」
また自分の話になったので、思わず居ずまいを正した。
「前にも言ったと思うけど、武彦君のためにも、早く解放してあげた方がいいよ」
「うん」
私はアフリカの独裁者か! そう言いたかったが、言えない。
「それに、亜希さんのためにもね」
亜希ちゃん。ヘタレな武彦の彼女。
亜希ちゃんが武彦の事をずっと好きだったのは、この前聞いて知っているけど、それでも理解に苦しむのだ。
どうしてあいつなの、と。
「それからさ、この前、武彦君に言われた事があってさ」
「え、何?」
次々に投下される言葉の爆弾。
「武彦君さ、美鈴が僕と付き合い始めた時、ショックだったらしいよ」
「ええ!?」
更に驚いた。あいつ、そんな事を言ったのか。あとで懲らしめないと。
「ダメだよ、武彦君を懲らしめたりしたら。僕が凄くお喋りだと思われるから」
いや、実際お喋りだし。武彦がリッキーに話した事のほとんどは、私に伝わってるし。
「うん、わかった」
私は笑顔で嘘を吐いた。
「もうあと何日もないよね、二次試験まで」
リッキーが席を立ちながら言う。
「ええ」
改めて言われると、ドキドキして来る。
「美鈴が緊張しなくてもいいと思うけど?」
その様子に気づいたのか、リッキーは私の肩を優しく抱いてくれた。
「してないよ、別に」
強がりを言ってしまう。
「震えてますけど、お嬢さん?」
リッキーが愉快そうに私の顔を覗き込んだ。
「……」
恥ずかしくなって、何も言い返せない。
私達は店を出た。
「あ、そうだ」
舗道を歩きながら、リッキーが口を開く。
「え?」
まだ何かあるの?
「武彦君と亜希さんの合格祝い、ウチの家族も交えて、三軒で盛大にしようって、姉が言ってたよ」
「え……?」
今日一番の衝撃だ。
リッキー一家と一緒? 気絶してしまうかも知れない。
頼みの綱は、武彦と亜希ちゃんだ。
そうだ、須佐君や櫛名田さんも巻き込んじゃおう。
私は思わずニヤリとしてしまった。
「何か企んでるな、美鈴?」
目ざといリッキーが言った。
「別にィ」
私は陽気に笑い、歩調を速めた。
武、頑張れよ。姉ちゃん達には、応援する事しかできないけど。