その七十五
僕は磐神武彦。もうすぐ高校を卒業する。
僕の家は、貧乏ではないけど、決して裕福という訳ではない。
だから、浪人して、予備校に通うなんてできない。
何よりも、あの姉が許してくれない。
下手をすると、大学に合格しなかったら、家を追い出されるかも知れないのだ。
図書館で勉強中に、僕はそれを彼女の都坂亜希ちゃんに話した。
「武君は絶対合格するから大丈夫。もし、家を追い出されたら、私の家に来ればいいよ」
亜希ちゃんは大胆な事をスッと言った。それって、どういう意味?
「それはまずいよ。亜希ちゃんのお父さんが許してくれないよ」
僕は亜希ちゃんのお父さんが何となく苦手なのだ。
「あら、お父さんは武君の事、凄くお気に入りなのよ、知らないの?」
「え?」
意外な答えが返って来た。
「私達がまだ小さい時、武君が身を挺して私を助けてくれたのを、お父さん、知ってるんだよ」
「え、そうなの?」
亜希ちゃんは恥ずかしそうだ。僕も何だか照れ臭くなった。
「でもさ、やっぱりそこは父親だから、自分の娘の彼氏にはいい顔できないって言ってた」
「ああ、そうなんだ」
父を幼くして喪った僕には、父親と娘の関係はよくわからない。
でも、姉の父に対する絶賛ぶりを見ていると、父と娘って、ある意味最強のカップルなのかも、などと考えてしまう。
「ごめん、武君、変な事言っちゃった?」
僕が落ち込んだと思ったのか、亜希ちゃんが手を合わせて謝った。
「心配しないで、武君。お父さんは武君と私の交際の事、反対してないから」
「う、うん」
何だか動揺している僕。今はそれどころじゃないんだけどなあ。
「さ、続きしよ」
「うん」
僕達は勉強に集中した。
夕方になり、図書館を出た僕達は、今度は亜希ちゃんの家で勉強した。
今日は母は残業、姉は遠い現場なので遅くまで戻らない。
それを知った亜希ちゃんが、夕食も一緒にと誘ってくれたのだ。
亜希ちゃんのご両親に会うのは付き合い始めてから何度かあったが、今回ほど緊張する事はなかった。
「お邪魔します」
僕は玄関で出迎えてくれたお母さんに頭を下げた。
亜希ちゃんとよく似ていて、凄く奇麗な人。淡い青のワンピースに真っ白なエプロンを着けている。
いつ会っても品がいい人だ。亜希ちゃんも将来こうなるのかな?
「いらっしゃい。武彦君の口に合うかわからないけど、食事もして行ってね」
お母さんはニコッとして言ってくれた。
「ありがとうございます」
「じゃ、武君、行こう」
亜希ちゃんに誘われて、二階の亜希ちゃんの部屋へ。
お父さんは何時に帰って来るのかな?
ドキドキが止まらない。いや、止まったら死んでしまうけど。
「今日は、お父さんが武君と一緒に食事したいって言ったから、夕食遅くなるけど、大丈夫よね?」
部屋に入ると亜希ちゃんが言う。
「平気だよ」
「お腹すいたら、冷蔵庫にポテトサラダあるから」
亜希ちゃんはそう言ってベッドに座る。僕はギクッとした。
「何、武君?」
キョトンとした顔で、亜希ちゃんは僕を見上げる。
「ああ、何でもないよ」
嫌らしい事を想像しました、とは言えないよね。
そして、僕達は、お父さんが帰って来るまで勉強した。
僕はほとんど身が入らなかったけど。
午後八時を過ぎた頃、お母さんが呼びに来た。
「お父さん、帰って来たわ」
その言葉に、僕は飛び上がりそうになった。
何でこんなにビクビクしてるんだろう?
亜希ちゃんと共に階下へ下りる。
お父さんは着替えをしに自分の部屋に行ったらしい。
僕達は先にキッチンに行った。
「わわ」
凄い。レストランのメニューか、というくらい、豪勢な料理が並んでいる。
「さ、かけて」
亜希ちゃんに促され、僕は椅子に座る。
隣に亜希ちゃんが座るらしいが、彼女はお母さんの手伝いに行く。
「やあ、武彦君、久しぶりだね」
黒のスウェットの上下に着替えたお父さんが、にこやかな顔で現れた。
「あ、お邪魔してます」
僕はぎこちなく立ち上がり、頭を下げた。
「まあまあ、堅苦しい挨拶は抜きにして」
お父さんは嬉しそうに向かいの席に座る。
「はい、どうぞ」
亜希ちゃんがお父さんのそばに行き、ビールの栓を抜いてジョッキに注ぐ。
「おう、ありがとう」
何だか、羨ましい光景だなあ。
「はい、武彦君」
ハッと気づくと、お母さんが隣でコーラのビンを持っていた。
「あ、ありがとうございます」
僕は慌ててコップを持った。
「ああ、武君にも私が注ごうと思ったのに」
亜希ちゃんが剥れた。何だか嬉しい。
「あら、ごめんなさいね」
お母さんは僕にウィンクして流し台の方に歩いて行く。
「もう、武君も嬉しそうにしないで!」
亜希ちゃんは結構本気で嫉妬しているみたいだ。
「じゃあ、亜希はお父さんにもっとお酌してくれ」
ほんのり赤くなった顔で、お父さんが言う。
「はいはい」
亜希ちゃんは僕を見て肩を竦め、お父さんにもう一度ビールを注いだ。
僕はアッと思い、慌ててコーラを飲み干す。
亜希ちゃんは嬉しそうに僕の隣に座り、
「はい」
とお酌してくれた。何だか、新婚さん気分だ。バカだな、僕って……。
そして食事が始まった。
お父さんの「寒いギャグ」のお陰で、僕はすっかり緊張が解け、和やかな雰囲気の中、時間は過ぎた。
お父さんは想像していたより、ずっと気さくな人だった。
やがて僕はお暇する事になった。
玄関まで、皆さん総出で(いや、三人だけだけど)見送りに来てくれた。
「武彦君、亜希をよろしく頼むよ」
何故かお父さんは涙ぐんでいる。それを見て亜希ちゃんももらい泣きしている。
「はい」
僕は力強く答えた。
「本当に頼むよ」
お父さんの両手が僕の右手を握る。痛いくらいに力が籠もっていた。
「お父さん、しつこいよ」
亜希ちゃんが涙を拭いながら言う。
「あ、そうだな」
お父さんはようやく僕の手を放してくれた。
「お休みなさい」
僕は亜希ちゃんの家を出た。
「武君の家に行って来る」
亜希ちゃんが出て来た。
「さ、行こう、武君」
「あ、うん」
僕達はすぐ目の前にある僕の家まで歩く。
距離にして、二十メートルもない。
玄関の明かりが点いている。
姉が帰っているようだ。
「また一緒に食事しようね」
亜希ちゃんが家の前で言った。
「うん。今日はありがとう」
「どういたしまして」
亜希ちゃんは手を振って帰って行った。
僕は亜希ちゃんが家に入るまで見送り、振り向く。
「わ!」
驚いてしまった。いつの間にか、姉が出て来ていたのだ。
「お帰り、武。楽しかったみたいだな」
「う、うん」
姉は怒っている訳ではないようだが、機嫌は良くないようだ。
僕は黙って姉の後ろを歩き、玄関のドアを閉じた。
「武くーん、相手の親御さんとどんなお話をすればいいのか、姉ちゃんに教えてくれない?」
急に甘えた声で言い出す姉。僕は呆気に取られた。
「武君てさ、そういう才能あると思うのよね、姉ちゃん。ね、ね?」
何だ、このニューバージョンは?
これならいつもの凶暴な姉の方がやり易いぞ。
また疲れそうな予感。




