その七十二
僕は磐神武彦。高校三年。
センター試験を終え、目指す大学の下見と願書提出も終え、今は一段落。
でも、二次試験が今月末頃にあるので、遊んではいられない。
自宅学習期間に入ったため、頼もしい存在である力丸沙久弥さんが、土曜日だけでなく、平日も時間が取れる時には、勉強を見に来てくれている。
沙久弥さんは、僕の姉の婚約者である憲太郎さんのお姉さんで、二十三歳なのに僕らと同じくらいに見えてしまう、「ザ・美少女」全開の人だ。
しかも、東大卒、その上合気道の師範。もう、スーパーレディである。
あ、あまり沙久弥さんを絶賛すると、僕の彼女の都坂亜希ちゃんの機嫌が悪くなるから、この辺で。
「基礎は何度復習しても、やり過ぎという事はないわ。身体に刻み込むつもりでね」
沙久弥さんは、ティータイムにそう言ってくれた。
「はい」
僕と亜希ちゃんは、大きく頷いて応じる。
「センター試験の自己採点と、あなた達が受験する国立大学のレベルを勘案すると、まず安全圏に入ったと思います。それでも、油断は禁物ですから、インフルエンザ等にも注意してね」
微笑んで話を続ける沙久弥さんに、僕も微笑んで答える。
「はい」
次の瞬間、亜希ちゃんが僕の背中を沙久弥さんに気づかれないように抓る。
「いた!」
「どうしたの、武彦君?」
僕のいきなりの叫びに、沙久弥さんはキョトンとして尋ねた。
「あはは、何でもありません」
僕は苦笑いして誤魔化した。
「では、今日はこれまで」
「ありがとうございました」
勉強の終了後、僕達は沙久弥さんと一緒に合気道の気の巡りを実践する。
こうすると、頭の回転も良くなり、免疫力もアップするらしい。
僕と亜希ちゃんは、沙久弥さんを見送って、居間に戻った。
考えてみると、母は仕事。
姉は例によって逃亡を図り、今は亜希ちゃんと二人きりだ。
何だか急にドキドキして来た。
気のせいか、亜希ちゃんも顔が赤い。
「今、私達、二人きりだね」
確かめるように言われると、尚更心臓が……。
先日、
「たまには、武君から仕掛けてよ」
と言われた事を思い出し、僕は亜希ちゃんに顔を近づけた。
すると、亜希ちゃんも待っていてくれたのか、すぐに目を閉じる。
うお! 手が震えて来た。いいのか?
「亜希ちゃん」
僕は彼女の耳元で囁き、キスをした。
「武君、素敵。今の、ドキドキした」
キスを終えて、目を潤ませた亜希ちゃんが言う。
大学に合格したら……。いかん、いかん!
その時、まるで僕の邪な思いを打ち砕くかのように、亜希ちゃんの携帯が鳴り出した。
「姫ちゃん?」
相手は櫛名田姫乃さんのようだ。
何だろう? いつもの調子で、かなりテンションの高い声が漏れ聞こえて来る。
何を言っているのかはよくわからないけど。
「そうなんだ。でも良かったじゃない」
亜希ちゃんが微笑んでそう返すと、櫛名田さんの大声が聞こえて来た。
「冗談じゃないわよ! あのバカ、ホントに許せないんだから!」
「姫ちゃん、そんなに興奮しないで」
亜希ちゃんは僕を見て、肩を竦める。
櫛名田さんの「暴走」は毎度の事であまり驚かないけど、須佐君、何をやらかしたんだろう?
「わかったわ。これからそっちに行くから。じゃあね」
亜希ちゃんは携帯を切ると、溜息を吐いた。
「どうしたの?」
僕は亜希ちゃんに尋ねた。亜希ちゃんは携帯をバッグにしまいながら、
「須佐君ね、マークミスしたと思っていたんだけど、もう一度よく見直したら、してなかったって」
「え?」
それは良かったんじゃ? でも、確かに心配した櫛名田さんにしてみれば、頭に来るかも。
「私も、良かったじゃないって言ったんだけど、姫ちゃん、完全に怒っちゃってて。これから落着かせに行くの」
「そ、そうなんだ」
亜希ちゃんはすまなそうな顔で、
「ごめんね、武君。もうちょっと一緒にいたかったんだけど」
「あ、大丈夫だよ、気にしないで」
僕はアタフタしながら返した。
もし、あのまま携帯が鳴らなかったら、僕は何をしていたかわからないから。
「ごめんね」
亜希ちゃんは何度も謝りながら、僕の家を出た。
須佐君、苦労が絶えないね。
マークミスをしていなかったのは良かったけど。
取り敢えず、須佐君に電話してみよう。
僕は携帯を取り出し、須佐君にかけた。
「はい」
「須佐君? 今大丈夫? 櫛名田さんと一緒?」
僕は小声で尋ねた。
「大丈夫だよ。姫乃、怒って家に帰っちゃったから」
「そうなんだ」
「今から来られない? ドコスにいるんだけど」
ドコスは僕ら高校生の溜まり場的存在のファミレスだ。
安くて量が多いメニューがたくさんある。
「うん、いいよ」
僕はすぐに出かける支度をし、ドコスに行った。
ドコスの一番奥の席に、須佐君はいた。
あまり元気そうに見えない。
「姫乃から、都坂さんに電話が行ったの?」
須佐君は苦笑いして尋ねて来た。
「うん。亜希ちゃん、櫛名田さんを宥めに行ったよ」
「そうなんだ」
須佐君の笑顔は、何故か悲しそうだ。
「実はさ」
僕が注文をすませると、須佐君が口を開いた。
「マークミスしていなかったっていう話、嘘なんだ」
「ええ?」
僕は思わず大声を上げてしまった。周囲の目が僕らに一斉に集中したのがわかる。
「ど、どうして?」
僕は身体を縮ませて尋ねる。
「姫乃があまり落ち込んでいるから、ね」
「ああ」
須佐君、優し過ぎる。それに男だ。僕には真似できない。
「そうでも言わないと、姫乃自身が調子を崩すって思ったんだ」
「でも、いずれはバレるよね?」
僕はその後の事を心配していた。
「その時はその時だよ。また謝るだけさ」
「須佐君……」
僕は猛烈に感動していた。
「僕のせいで、姫乃が受験に失敗したら、本当に嫌だもん」
「そうだね」
須佐君は僕に顔を近づけ、
「これ、絶対に誰にも言わないでね。都坂さんにも」
「うん」
亜希ちゃんに言ったら、間違いなく櫛名田さんに言われちゃうもんな。
あ。
「でも、姉には話しちゃうかも……」
「え?」
須佐君がギクッとした。
「姉は、僕が普段と違うのを敏感に感じて、鬼のような追求をして来るから……」
「ああ」
須佐君も、何となく納得したらしい。
「その時は、僕に直接訊くように言ってよ」
「は?」
僕は須佐君が赤くなって顔を俯かせるのを見て驚いた。
須佐君、まだ姉に未練あるの?
姉は喜ぶだろうけど。
取り敢えず、僕は姉以外には誰にも喋らないのを固く誓い、須佐君と別れた。
家に帰ると、沙久弥さんが帰った情報を入手した姉が帰っていた。
「お帰り、武。亜希ちゃんとデートか?」
憲太郎さんと映画を観て来た姉は上機嫌だ。
「そうならいいんだけどね」
「何だ、何があったんだ?」
妙に嬉しそうな顔なのが癪に障るが、まあいいか。
「何があったのか知りたいのなら、須佐君に訊いて」
「え?」
姉が何故かモジモジする。何だ、そのリアクション?
「ダメだよ、武。姉ちゃんには、リッキーというフィアンセがいるの。須佐君とは付き合えないわ」
意味不明の事を言い出す姉。僕は溜息を吐き、階段を上がる。
「ああ、冗談だよ、武! 何があったのか、教えて」
姉は苦笑いしながら僕を追いかけて来た。
居間に行き、僕は須佐君の話をした。
最初はニコニコして聞いていた姉も、次第に真剣な表情になった。
「そうかあ。須佐君、男ぜよ」
腕組みをし、大きく頷いている。大河ドラマの見過ぎだ。
「わかった。その話、姉ちゃんのこの豊かな胸の内に収めておくよ」
「え?」
姉は自分の胸をユサユサさせて、居間を出て行った。
結局真面目に聞いているフリをしてただけ?
大丈夫かなあ、本当に。
不安だ。




