その六十四
僕は磐神武彦。高校三年。
この前とてもショックな事があり、酷く落ち込んだが、何とか復活した。
「あんたがそんなに落ち込むのは、亜希ちゃんを信じていないからだ!」
姉に言われた。
その姉も婚約者の力丸憲太郎さんが僕の彼女の都坂亜希ちゃんと写メを撮ったって、酷く怒っていたのだ。
本当に自分の事は棚に上げる人なのだ。
でもその事があってから、亜希ちゃんが妙に優しいのは嬉しい。
「ホントにごめんね、武君。私、無神経だった」
あまり何度も謝られたので、僕は恐縮してしまった。
「もう大丈夫だよ、亜希ちゃん。気にしてないから」
「そう? じゃあ」
亜希ちゃんは僕を誰もいない教室に引き込み、目を閉じて唇を突き出した。
「お許しのしるし、下さい」
「え?」
学校で? それはちょっと……。
「武君」
「う、うん」
亜希ちゃんの甘えるような声に負け、僕はその柔らかい唇に近づいた。
こうして僕達は完全修復した。
すでに十二月も残り少ない。
試験まで一ヶ月を切った。
亜希ちゃんは完全に安全圏内だが、僕はまだ不安が残る。
しかし、優秀な家庭教師である力丸沙久弥さんは、
「武彦君は大丈夫。きっと合格するわ」
と言ってくれた。沙久弥さんがそう言うと、本当にそんな気がして来る。
そんな事を亜希ちゃんに知られたら、また機嫌が悪くなる。
亜希ちゃん、最近ますます嫉妬深いんだよね。
自分でも気づいていて、反省しているみたいなんだけど。
沙久弥さんは僕の義理のお姉さんになる人なんだから、何がどう転んだってそんな事あり得ないのに。
今度訊いてみようかな?
でも、やめておこう。ややこしくなりそうだから。
そうだ、沙久弥さんに相談してみよう。
姉に相談してもダメだろうし、同級生の誰かでは亜希ちゃんに話されそうだしね。
僕は帰り道、亜希ちゃんと別れてから沙久弥さんに電話した。
「あら、珍しいわね、武彦君。どうしたの?」
相変わらずゾクゾクするような声で話す沙久弥さん。
確かに僕が亜希ちゃんでも、嫉妬しそうだな。
取り敢えず僕は会いたい事を告げた。
「それでは、今武彦君の家の近くにいますから、十分でそちらに行きます」
「はい」
家に来るの? 確か姉は現場からそのまま大学に行くって言ってたから、家には誰もいない。
母さんも遅くなるって話だったし。
どうしよう、ドキドキして来た。
この前、一人で沙久弥さんと話した姉の気持ちがわかるような気がした。
逃げる訳にもいかない。
僕は意を決して、家に帰った。
そして、着替えをすませ、お湯を沸かしてお茶の準備をした。
げ、もう時間だ!
玄関の呼び鈴が鳴った。
「はい!」
慌てて走り出し、ドアを開いた。
「今日は、武彦君」
沙久弥さんが眩しい笑顔で立っていた。今日は稽古の日だったらしく、着物姿だ。
色っぽい。姉のようなガサツさが微塵もない大人の女性だ。
「ど、どうぞ」
僕は沙久弥さんを居間に通した。そしておぼつかない手でお茶を淹れて出した。
「会いたいなんて言われたから、ドキドキしてきたのだけど、どんなお話?」
沙久弥さんが言った。
え? 沙久弥さんがドキドキ? えええ?
「じ、実はですね……」
何だか怒られそうな感じだったけど、僕は思い切って話してみた。
話が終わると、沙久弥さんは僕を見てクスッと笑い、
「のろけ話、ご馳走様」
「あ、その……」
僕はその言葉にハッとし、真っ赤になった。
確かに他人が聞けば、僕の話はのろけ話にしか聞こえない。
「でも、何だか嬉しいわ。亜希さんて、私をライバル視してくれているのね」
「はあ、すみません」
僕は居た堪れなくなって謝った。
「どうして謝るの、武彦君? 私は嬉しいのよ」
「あ、そうなんですか」
僕は訳がわからなくなっていた。
「本当は、亜希さんは美鈴さんをライバル視しているのよ」
沙久弥さんが言った。
「え? 姉をですか?」
ますますわからない。どうして姉をライバル視している話になるんだ?
「そう。だから、同じ姉という立場の私もライバルなのよ、亜希さんにとっては」
「はあ……」
何だかよくわからないけど、悪いのは姉美鈴で正解だろうか?
「憲太郎が言っていたわ。僕のライバルは武彦君だって」
「え? 僕がライバル、ですか?」
憲太郎さんのライバルだなんて、あり得ないんだけど。
「そう。他のどんな男性よりも、貴方が一番の強敵なんですって」
「……」
何となくわかった。要するに、僕がシスターコンプレックスだという事なんだ。
そして姉はブラザーコンプレックス。
だから、亜希ちゃんはいつも以上に嫉妬したし、警戒した。
沙久弥さんは、自分が経験しているから、全てお見通しなのだろう。
「私も彼ができた時、憲太郎が機嫌が悪くなったのを感じたの。本人は否定していたけど、丸わかりだったわ」
「そうなんですか」
嫉妬する憲太郎さんなんて、想像できないな。
「でもね、そんな弟を可愛いと思ってしまうのも確かね」
沙久弥さんは楽しそうに笑った。ドキッとした。可愛いと思ってしまった。
「亜希さんの件は、時間が解決するわ。私と憲太郎のようにね」
「はい。ありがとうございました」
沙久弥さんは爽やかな笑顔で帰って行った。
僕は沙久弥さんが見えなくなるまで見送った。
「随分熱心にお見送りなのね、武君」
いきなり後ろから亜希ちゃんに声をかけられた。
ギクッとして振り返る。
「あ、亜希ちゃん」
亜希ちゃんは顔は笑っているが、目は笑っていない。
「あの、その……」
「やっぱり武君、沙久弥さんを好きなんじゃない!」
亜希ちゃんが涙声で怒鳴った。
「ち、違うよ……」
僕は慌てて否定した。その時、亜希ちゃんの携帯が鳴り出した。
「はい」
亜希ちゃんは相手の名前を見てとても驚いていた。
「はい、はい」
話は一方的で、亜希ちゃんは只返事をするだけだ。
そして通話は終わり、亜希ちゃんは携帯をポケットに入れ、僕を見た。
「ごめん、武君。私って、どうしてこんなに嫉妬深いのかな」
亜希ちゃんは涙ぐんでいた。
「沙久弥さんからだった。武君が、私との事を相談して来たって。私との関係が壊れるのをとても心配していたって」
「そ、そう」
沙久弥さん、ナイスタイミングです。涙が出そうだ。
「何があっても、武君は私の事を大切に思っていると信じなさいって……」
亜希ちゃんはとうとう泣き出して僕に抱きついて来た。
「ごめんね、武君」
「いいよ、亜希ちゃん。誤解されても仕方ない状況だったし」
僕は亜希ちゃんを部屋に上げて、しばらく話をした。
そして、本日二度目のキスをして、亜希ちゃんを送り出す。
「何、武君?」
僕がずっと後ろ姿を見ている事に気づいた亜希ちゃんが振り返った。
「見えなくなるまで、見送るよ」
「ありがとう」
亜希ちゃんは前を向き、手を振りながら歩いて行った。
「沙久弥さん、素敵だなあ。あんなお姉さんだったら、毎日が楽しいだろうなあ」
そう言ってしまってから、僕は背中に殺気を感じた。
「何だって、武? あんなお姉さんだったら、毎日が楽しい?」
そこには姉が仁王立ちしていた。僕は心臓が止まるかと思った。
「こんな姉ちゃんで悪かったな、武!」
姉美鈴の鮮やかなスリーパーホールドが僕の首に決まった。
今日は大学に直行じゃなかったのかよお……。