その六十
僕は磐神武彦。高校三年。
今年ももう一ヶ月余り。
今日も図書館で閉館ギリギリまで勉強。
一年前の僕からは想像もつかないくらいの変貌ぶりだ。
それもこれも、幼馴染みで同級生で、その上彼女という最強形態の都坂亜希ちゃんがいてくれるからだ。
「お疲れ様、武君」
どんなに疲れていても、彼女の笑顔で癒されてしまう。
何とも単純な構造の僕なのである。
「見えて来たね、一緒に合格」
亜希ちゃんが飛び切りの笑顔で囁く。僕は顔を紅潮させて、
「そ、そだね」
と応じるのが精一杯。
先日受けた公開模試の答え合わせで、かなりの得点らしいのを確認し、公園のベンチで二人でお祝いの乾杯。
もちろん、未成年の僕達は紅茶だ。
「ああ、何だか本当に嬉しくって、涙が出て来そう」
亜希ちゃんは一口紅茶を飲んでから呟く。僕はその言葉にドキリとした。
「武君、もう一息だから、頑張ろうね」
「うん」
ふと気づくと、亜希ちゃんが目を瞑って唇を突き出している。
まさか、これは?
周囲を見ると、誰もいない。人の流れが途絶えた。
僕はゴクリと唾を呑み込みそうになるのを堪え、亜希ちゃんの柔らかい唇にキスする。
「帰ろうか」
亜希ちゃんは顔を赤くして微笑む。僕も火照る顔を手で扇ぎ、
「うん」
僕達は家路に着いた。
「あれ?」
その時、携帯にメールの着信。
ギクッとしたが、見てみると姉からだ。
「誰から?」
最近、亜希ちゃんも僕のメールをかなり気にするようになった。
段々「美鈴化」しているようで怖い。
「姉ちゃんから。何だろう?」
僕はメールを開封した。
「急ぎ、帰宅されたし。姉、ピンチ」
本文にはそれだけ書かれていた。
「早く帰った方がいいんじゃない、武君?」
真面目な亜希ちゃんは心配そうだ。
「大丈夫だよ。姉ちゃんは大袈裟だから」
僕はいつもの事なので、あまり気にしていない。
でも亜希ちゃんは、
「早く帰った方がいいよ、武君」
「うん、わかった」
亜希ちゃんが真剣な表情で言うので、僕は仕方なく亜希ちゃんと別れ、家へと急いだ。
どうせロクでもない事なんだろうけど。
家に着いた。
何でもないと思いながらも、いざ玄関のドアを開く時にはドキドキした。
本当に姉が大変な事になっていたら、などと想像してしまう。
「只今」
ドアを開き、玄関に入ると、そこにはどこかで見た事のある白い靴が。
これは……。
「お帰りなさい、武彦君」
居間から現れたのは、「最強の姉」である力丸沙久弥さん。
今日もまた、白で固めた「美少女モード」全開だ。
そうか、姉はひとりで沙久弥さんの相手をしていたのか。
ある意味「ピンチ」だったかも知れない。
「いらっしゃい、沙久弥さん。今日はどうしたんですか?」
僕は微笑んで尋ねた。すると沙久弥さんは、
「武彦君の顔を見たくなって来たんだけど。道場から呼ばれてしまって、帰るところなの」
と若干悲しそうに言う。ああ、何だか僕、凄く悪い事をしているみたいだ。
「そうなんですか。すみません、知っていれば、早く帰ったのですけど」
「私が急に思いついて来てしまったのだから、気にしないでね」
沙久弥さんは天使のような笑顔で言ってくれた。
「はい」
それにしても、我が姉はどうしたのだろう?
「それじゃあ、武彦君、また土曜日に」
「はい」
沙久弥さんは優雅に靴を履き、玄関を出て行った。
「姉ちゃん?」
僕は姉の事が心配になり、居間に入った。すると姉はお辞儀をした状態で静止画像のように止まっていた。
なるほど、挨拶をしてそのままなので、沙久弥さんも姉の異変に気づかなかったのか。
「姉ちゃん、大丈夫?」
肩を掴んで揺すってみる。すると魔法が解けたように姉が顔を上げた。
「ああ、武、お帰り」
姉は視点が定まらないほど疲労していた。
「ふああ、死ぬかと思った……」
姉はそのままソファに倒れ込んだ。
「どうして私が一人の時にいきなり来るんだろう……」
姉は泣きそうだ。
「沙久弥さんに失礼だよ、その言い方」
僕は姉の言葉を窘めた。こんな時でなければなかなか言えない事だ。
「そうなんだけどさあ。せめて、連絡ほしいわ」
「姉ちゃんだって、僕の部屋とかノックなしで入るじゃないか」
僕は自分の事を棚に上げる姉に腹が立ったので、日頃の鬱憤を晴らした。
「それはそれ、これはこれでしょ?」
姉の棚は広く大きいため、そのくらいの注意の仕方では効き目がないらしい。
「でもありがとう、武。急いで帰ってくれたんだね。お前は本当に姉思いの弟だ」
いきなり抱きしめられた。
またあの感触……。
亜希ちゃんが言ってくれたので、急いで戻ったという事は、言わないのが正解だな。
「でもさ、姉ちゃん、憲太郎さんと結婚したら、沙久弥さんと二人きりなんて、ざらにある事になるよ。大丈夫なの?」
姉がビクンとした。泣きそうだ。
「あーん、武君の意地悪ゥ」
ええ? 甘えた声でまた抱きつかれた。
ドキドキしている僕。
また、姉が可愛いと思ってしまう。
「そんな時は、いつでも呼んでよ。僕で役に立つならさ」
「うん」
つい、そんな事を言ってしまった。
「武、愛してるよ」
姉が僕を見て囁く。そういう意味ではないと思いながらも、僕はドキッとしてしまう。
「ぼ、僕もだよ」
僕は恥ずかしかったけど、思い切って言った。
「あ、それはやだ。お前は姉ちゃんを愛してくれなくていいから」
姉のリアクションは驚愕ものだった。
「は?」
唖然とする僕。どういう事?
「取り敢えず、ありがとね、武」
そう言うと、姉はサッサと二階に上がりかけ、
「キッチンに洗い物が残っているから、よろしくね」
とウィンクされた。
何なんだ、あの性格?
沙久弥さん、助けて。