その五十四
僕は磐神武彦。高校三年。
姉ーズの脅威に日々悩む受験生だ。
姉の婚約者の力丸憲太郎さんのお姉さんである沙久弥さんに偶然街で会った。
沙久弥さんは僕の事を「可愛い」と言ってくれた。
だから僕もお返しに「可愛い」と言った。
その時の沙久弥さんの喜びようは驚くほどだった。
以前憲太郎さんが言っていた通りだった。
「どうしたの、武君、ニヤニヤして?」
「え?」
僕の彼女の都坂亜希ちゃんに言われて、ハッとした。
今僕は亜希ちゃんと図書館で勉強中だった。
亜希ちゃんは口を尖らせている。
何か誤解されているようだ。
「沙久弥さんがいくら奇麗で可愛くても、私の前で嬉しそうに名前を呟かないでよ」
「え?」
まずい。僕は無意識のうちに「沙久弥さん」と口走っていたようだ。
「ご、ごめん」
僕は焦って謝った。すると亜希ちゃんは、
「でも、もし沙久弥さんが私より先に武君と出会っていたら、勝ち目ないよね」
「そ、そんな事ないよ、亜希ちゃん。沙久弥さんは確かに奇麗だけど、あくまで姉の婚約者のお姉さんとして素敵だと思うだけで、好きになったりなんかしないって」
僕はかなり慌てた。
「ありがとう、武君」
亜希ちゃんがニッコリしてくれたので、ホッとした。
僕達はそこからは勉強に集中した。
そして夕方になり、家路に着いた。
「じゃあね」
僕は亜希ちゃんを家まで送り、自分の家へと歩き出す。
気をつけないといけない。
今度沙久弥さんの名前を無意識に言ってしまったら、言い訳できないもんな。
でも、沙久弥さんを恋愛対象として意識した事はないのははっきりしている。
嫉妬深い亜希ちゃんも可愛いけど、ちょっとね。
「只今」
玄関に入ると、姉が出かけるところだった。
「おう、武、お帰り」
機嫌が良さそうなのでホッとする。
この前怒らせちゃったから、ちょっとだけ気まずかったのだ。
こういうさっぱりしたところが姉の良さだ。
「あ、そうだ」
僕が階段を上がりかけた時、姉が不意に言った。
「な、何?」
急に怖くなる。しかし姉はニコニコして、
「沙久弥さんが、お前の事、誉めてたぞ。今度は道場で会いたいってさ」
「え?」
全身から嫌な汗が噴き出すのがはっきりわかる。
「お前に合気道の稽古をつけたいって。よろしくお願いしますって言っといたからな」
「えええ!?」
更に汗が噴き出す。
「断るなよ、武。断ったら……」
姉が指の関節をボキボキ鳴らす。
食事会の時の話が、現実になってしまった……。
「お前だけが頼りなんだよ。そんな顔しないで、引き受けてよお、武くーん」
姉の猫撫で声は怖い。
「わ、わかったよ、姉ちゃん」
僕は戦場に赴く兵士の心境だ。
「ありがとう、武君!」
姉が階段を駆け上がり、僕のほっぺにキスをした。
「よろしくね」
姉はスキップをして出かけた。
久しぶりにキスをされた。
でもこれは悪魔のキスだ。
僕が何かヘマをしたら、同じほっぺが真っ赤に腫れる事になる。
どうしよう?