その三十八
僕は磐神武彦。高校三年。
その大事な夏を、幼馴染で同級生で、しかも彼女である都坂亜希ちゃんと勉学に勤しもうと思っていた。
ところが、亜希ちゃんのお母さんのお姉さん、つまり、亜希ちゃんの伯母さんが事故で入院したとかで、彼女は遠く静岡へ行ってしまった。
三日後には亜希ちゃんだけ帰って来るらしい。
「その時は、ウチで勉強しようね」
亜希ちゃんのその言葉に、僕は鼻血が出そうだった。
だってさ。ご両親は静岡なんだよ?
ってことは、一人っ子の亜希ちゃんは、自宅に一人。
そこへ僕がお邪魔していいのだろうか?
今からドキドキして来た。
果たして、冷静でいられるだろうかと。
そんな僕の沸騰しそうな頭に冷や水を浴びせかけるような事件が起こった。
「ふう。武の部屋は涼しいなあ」
何故か姉が僕の部屋を占拠している。そして、エアコンを満喫している。
姉の部屋のエアコンが故障したのだ。
無理もない。
子供の頃から使っていたものなのだから。
しかも、調子が悪いと、姉はよく叩いていた。
今までよく動いていたと思う。
「武、冷蔵庫からアイスコーヒー持って来てよ」
Tシャツとデニムのショートパンツ姿の姉は、僕のベッドの上で胡坐をかいた状態で命令する。
「姉ちゃん、パンツ見えるよ」
僕はそう捨てゼリフを吐いてから、灼熱の廊下に出た。
「もう、武君たら、エッチなんだからァ」
姉は上目遣いで言った。僕は呆れて、
「何それ?」
「亜希ちゃんの真似」
嬉しそうに言う姉に何のリアクションもせず、僕は階段に向かう。
「こらあ、何か感想言え、武!」
怒鳴る姉を無視する。
全く。何でこんな時に、姉ちゃんと二人で過ごさないといけないのさ。
心の中で毒づく。
姉の事を嫌いな訳ではないが、部屋にいつかれるのは困る。少々ウザい。
僕達がこんなバカをしている時も、母は働いている。
それが凄く申し訳ない。
きょうのバイトは、時間延長しよう。そう思った。
「お待たせ」
アイスコーヒーを淹れて戻ってみると、姉はベッドで横になって転寝していた。
寝顔は可愛い。って言うか、静かにしていれば、ファッションモデル並みなんだけどね。
中学の頃は、僕は苛められてたけど、姉に会いたくてウチに来るバカ男子も多かったな。
「お前の姉ちゃん、奇麗だよなあ。羨ましいなあ」
「風呂とか一緒に入ってるのか?」
女のきょうだいがいない連中は、そんな事しか考えていなかった。
確かに小学校低学年までは、一緒に入ってたけどさ。
でも、僕の方が先に恥ずかしくなって、入るのやめたんだよな。
その時の姉は、とても寂しそうだったのを思い出した。
「疲れてるんだね、姉ちゃん」
姉は日中働き、夜は夜間大学の講義を受けている。疲れるよね。
ごめん、ウザいなんて思って。
僕はトレイを机の上に置き、姉にタオルケットをかけた。
「わ!」
急に姉が動き、僕は抱きしめられてしまった。いい匂いがする。昔と同じだ。
「武ェ……」
寝言だ。僕はそっと姉の腕を放した。
「ヘタレ過ぎるぞ、武ェ……」
どんな夢見てるんだろう?
「姉ちゃん、アイスコーヒー」
僕は姉の耳に口を近づけて告げた。
「うん、ありがとう……」
まだ寝ぼけてるな、と思った時だった。
「……」
今、キスされた。
???
キス、された? それも、口に……。
「リッキー、愛してるわん」
ああ、恋人の力丸憲太郎さんの夢見てるのか。
ビックリした。でも、ドキドキする。
「姉ちゃん、コーヒー淹れて来たよ」
「う、うん……」
僕は少し離れたところから言った。
ムクッと姉は起き上がった。
「私、寝ちゃったんだ……。あれ、リッキーは?」
寝ぼけ眼で姉が尋ねる。僕はギクッとして、
「憲太郎さんはいないよ。寝ぼけてるの?」
嫌な汗が背中を伝わる。
「ああ、そうか。夢だったんだ。残念、リッキーとキスしたと思ったのに……」
妙に照れる姉を見て、僕は罪悪感に押し潰されそうになった。
「そ、そう、残念だったね」
何とか惚けた。
「おいしい!」
姉はアイスコーヒーを一気に飲み干し、ベッドから立ち上がった。
「そろそろ出かけるか」
「え? 今日は大学休みでしょ?」
僕はキョトンとした。姉はニッとして、
「リッキーとデートよ。夢で予行演習したから、バッチリ!」
そして悠然と部屋を出て行く。
「後で亜希ちゃんに謝っとくね」
「え?」
姉は謎の言葉を残して立ち去った。
謝る? 何を? 亜希ちゃんの下手な物真似した事?
……。
まさかとは思うけど……。
さっきより嫌な汗が大量に出て来た。