その三百十二
最終話です。
二千十六年、秋。
「やっと夢が叶ったよ、亜希」
僕は目の前にいる眩いばかりの純白のウェディングドレスを着た妻の亜希に告げた。
「私もよ、武彦」
亜希は美しい瞳を涙で潤ませて言った。
僕は磐神武彦。新米の高校の教員だ。
二千十四年、教員試験を受験し、何とか合格した。
そして、二千十五年、大学を無事に卒業した。
ところが、教員の本採用はなかなか決まらず、今年はもうダメなのかと諦めかけた頃、ようやくお呼びがかかった。
赴任先となったのは、住んでいる場所から随分離れており、迷ったのだが、
「贅沢を言ったらダメ! 行きなさいよ、武彦」
その当時まだ婚約者だった亜希に後押しされ、決断した。
そして、大学時代に亜希と考えていた「入籍を先にすませ、結婚式は落ち着いてから」を実行に移した。
僕は学校の近くにアパートを借りて一人暮らしを始めた。
亜希の勤務先は自宅より更に遠い場所なので、涙を呑んでの「単身赴任」だった。
式を先延ばしにしたのは、もう一つ理由がある。
姉美鈴の夫の憲太郎さんが、ブラジルのリオデジャネイロで開催されるオリンピックに出場する事になったからだ。
「全く、もう少しスケジュールを考えて動けよ、武」
そう言って僕を窘めた姉。気分はすでにカーニバルみたいだ。
「金メダル以外は許さないんだから!」
そう言って、憲太郎さんの顔を引きつらせたらしい。姉らしいと言えば、姉らしいけどね。
「新しい娘ができたみたいで、嬉しいわ」
そう言ってはしゃいでいるのは、我が母。
亜希は、実家からわずか数十メートルの僕の家に引っ越して来たのだ。
「お義母さんさんが寂しいだろうから」
亜希なりの気遣いだったが、それもあまり必要ではないらしいのは、しばらくしてからわかった。
母は、相変わらず、高校の同級生だった日高建史さんと頻繁に会っているのだ。
それでも、亜希との同居は嬉しいらしく、
「早くあなた達の子供を世話したいわ」
そんな事を言って、亜希を苦笑いさせていた。
憲太郎さん、そして、そのお姉さんの沙久弥さんの夫である西郷隆さんは、見事、金メダルを獲得し、凱旋した。
「取れなかったら、リオに永住しようかとまで考えたんだよ」
西郷さんが言った。でも、あまり冗談ぽく聞こえないのは、沙久弥さんが奥さんだからだろうか?
「これでやっと、式を挙げられるね、武彦君」
憲太郎さんが言ってくれた。
「そうですね」
僕は亜希と顔を見合わせて応じた。
そして、現在。
結婚式場の控え室で、亜希は一番の親友である須佐姫乃さんと話をしていた。
「亜希が我慢させ過ぎたから、磐神君、相当溜まっていたのかしらね? できるの、早かったね」
何だかとんでもない事を言っているのが聞こえて来た。
亜希は恥ずかしそうに俯き、
「やめてよ、そういう言い方は」
そう言って、少しだけ膨らみ始めたお腹をさすった。
そう、彼女の身体には、僕達の子供が宿っているのだ。
確かに、随分と回り道をした気がするけど、溜まっていたと言われるのは心外だ。
「武彦君、本当に結婚しちゃったんだね」
西郷さんのお姉さんである依里さんに悲しそうな顔で言われてしまった。
「依里姉、結構本気だったんだ」
その依里さんのすぐ下の詠美さんが言った。僕は苦笑いするしかない。
「武彦お兄ちゃん、亜希お姉ちゃん、おめでとう」
そこへ、西郷シスターズの長女の恵さんの長女の莉子ちゃんが現れた。
その後ろには、涙ぐんでいる次女の真子ちゃんがいた。
「ありがとう、莉子ちゃん」
僕と亜希は声を揃えてお礼を言った。
「磐神、都坂、おめでとう。ああ、もう入籍をすませているから、二人共磐神か?」
そう言って笑ったのは、母校の高木睦美先生。来年、定年だそうだ。
「おめでとうございます」
高木先生と一緒に来たのは、憲太郎さんの中学の同級生である須芹日美子先生。
途端に姉の顔が引きつり、憲太郎さんと須芹先生の間に立ち塞がった。
「どうもありがとうございます」
姉は無理に笑顔を作って須芹先生に言った。須芹先生も事情がわかっているので、複雑な笑顔をしている。
憲太郎さんも困った表情になっていた。
姉はまだ憲太郎さんと須芹先生の事を疑っているのかな? 全く、恥ずかしいな。
「珠ちゃん、おめでとう」
日高さんが、お嬢さんの麗美さんと実羽さんと共に現れた。
「ありがとうございます」
亜希のご両親と話していた母は、今日一番の笑顔になって日高さんに近づいた。
本当に結婚する気ないのかな?
「ねえ、あの人が例の人?」
亜希のお母さんの瑠美子さんが僕に小声で尋ねる。
「あ、ええ、まあ……」
僕は苦笑いして応じた。
「武君、おめでとう」
そこへ、実羽さんのお嬢さんである皆実ちゃんが来た。
すっかり女の子らしくなり、見違えてしまった。
「あら、あなた、武君の何?」
ライバル意識を燃やしたのか、さっきまでしょんぼりしていた真子ちゃんが皆実ちゃんに詰め寄った。
「真子」
ところが、恵さんが登場し、真子ちゃんはビクッとして引き下がった。未だに怖いみたいだ。
先が思いやられそうな気がしてしまう。
「相変わらず、女を引きつけまくってるな、武」
いつの間にか、姉が背後に回り込み、首を絞めて来た。
高校の同級生達と話していた亜希も驚いて姉を見ている。
「ちょっと、姉ちゃん、やめてよ、みんなが見ているよ!」
「みんなが見ているからだよ!」
姉はそう言うと、僕を引き摺るようにして、亜希のところに連れて行った。
「亜希ちゃん、返品は受け付けないからね。今日からは責任持って、こいつの面倒を見てね」
姉の声がうわずっているのがわかった。顔を見ると、涙ぐんでいる。
「はい、お義姉さん」
亜希も涙を拭って応じていた。僕も泣きそうになったが、何とか堪えた。
「遅くなりました。本日はおめでとうございます」
そこに駆けつけたのは、あの多田羅美鈴さんと、恋人の狭野尊君。
二人は同じ大学に進学し、将来は結婚する予定だ。
「久しぶりだな、多田羅、狭野」
高木先生が言った。多田羅さんと狭野君は高木先生と須芹先生を見て、
「お久しぶりです」
ああ、何だか、いろいろ思い出したな。でも、全部よき思い出だ。
「武彦君、亜希さん、おめでとう」
磐神の祖父母と共に、従姉の未実さんがやって来た。
伯母の依子さんと伯父の研二さんは母と話している。
従兄の須美雄さんは、仕事の都合で来られないと言って来たのを、姉が悲しそうに聞いていたのは何故なのだろうか?
訊いても、教えてくれなかった。
「武彦、亜希さん、おめでとう」
更に綿積の祖父母が、豊叔父さんと一緒に現れた。
「武彦と亜希さんの結婚式まで生きていられてよかったよ」
祖父が涙ぐんで言ったので、僕は、
「そんな事言わないで、ひ孫の顔を見てよ、お祖父ちゃん」
「そうだよ、全く、何を弱気な」
豊叔父さんが祖父の肩を叩いた。
「よかった、何とか間に合ったね」
そう言って、呼吸を整えているのは、亜希の従兄の忍さん。
奥さんの真弥さんは臨月なので、出席を見合わせたそうだ。
「全員、揃いましたか?」
式場の人が顔を出した。僕と亜希は大きく頷いた。
「では、ご一同様、お顔合わせという事で、こちらへ移動なさってください」
狭くなっていた控え室から、ぞろぞろと皆さんが出て行く。
その流れに逆らって、僕と亜希は部屋に隅に留まった。
「いつも綺麗だけど、今日はもっと綺麗だよ、亜希」
「ありがとう、武彦。幸せになろうね」
「もちろんさ」
僕達は皆に見つからないようにキスした。
二人の生活がいよいよ始まるんだ。
「おい、何してるんだ、二人共。早くしろよ。主役が来ないと、始まらないぞ」
ニヤニヤしながら、姉が顔を覗かせていた。見られた? まあ、いいか。
ありがとう、姉ちゃん。大好きだよ。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。