その三百十一
遂に大学のカリキュラムは全て終了し、あとは卒業式を残すのみとなった。
まだ本採用の連絡は来ていないけれど、何とか滑り込めればと思っている。
僕は磐神武彦。そういう訳で、只今、取り敢えず大学四年だと思う。
幼馴染みで、その上彼女になってくれて、思いがけなくも、結婚をしてくれると思われる都坂亜希ちゃんは、念願の社会福祉士の試験に合格した。
僕は始めから信じて疑わなかったけど、そんな事を軽々しく口にすると、亜希ちゃんにムッとされると思ったから、言わなかった。
亜希ちゃんが怖いだけだろうという声がどこかから聞こえて来そうだけど、そんな事はない。
「武彦も絶対に採用されるから」
亜希ちゃんは目を潤ませて僕の両手を包み込むようにして言ってくれた。
「ありがとう、亜希」
僕も感動して泣きそうになりながら応じた。そして、今日は久しぶりのデート。
カフェのオープンテラスでコーヒーブレイクをしているところだ。
心なしか、亜希ちゃんの化粧が派手な気がするし、春めいて来たとは言っても、露出が多い気もする。
スカート短いし、襟元が大きく開いているし……。
もしかして、また亜希ちゃん、頑張ろうとしているのだろうか?
僕はどうすればいいのだろうか? いつも何もしないのは、亜希ちゃんに対して失礼なのだろうか?
いや、でも、そんな感じで事が進むのは、どうしても、僕達に向いていないと思う。
こんな相談を誰にもできないので、他の人はどうなのかは僕にはわからない。
古い考えだと言われるかも知れないが、結婚するまでは清い交際でいいのではないだろうか?
他の人がそうだからと言って、真似する必要も、焦る必要もないと思うんだけどな。
「亜希」
だから僕は決断した。
「何?」
何故か亜希ちゃんは畏まって僕を見た。僕は苦笑いをして、
「一区切りついたね」
「あ、うん……」
何故か恥ずかしそうに俯く亜希ちゃん。ああ、勘違いさせてしまったかな?
「でもさ、まだ僕は終わっていないんだよね。これからだから」
僕は微笑んだままで言い添えた。亜希ちゃんがハッとして顔を上げ、僕を見る。
自分の早とちりに気づいたようだ。
「まだ、何も準備できていないけど、予約だけさせてくれるかな」
「え?」
今度はキョトンとする亜希ちゃん。ああ、可愛過ぎる! 今すぐ抱きしめたいけど、ここでは無理。
「都坂亜希さん」
僕はいつになくよそ行きの声で言った。亜希ちゃんはまたハッとして居ずまいを正し、
「はい」
僕が亜希ちゃんをフルネームで呼んだのなんて、多分初めてだな。だから、亜希ちゃんもびっくりしているのがわかった。
「貴女との結婚の予約を入れさせてください」
僕はいつもの倍の速さで心臓が動いているのを感じながら、思い切って告げた。
亜希ちゃんは目を見開き、微動だにしない。
バクバクしている心臓の音が店にいる人全員に聞こえてしまうのではないかと思った。
「はい。お受け致します。無期限で」
亜希ちゃんの右の目から綺麗な涙が一粒ぽろりと零れるのを見た。
「できるだけ早く履行できるように鋭意努力致します」
僕は頭を下げて応じた。
「お待ちしています」
ハッとして顔を上げると、亜希ちゃんの顔が目の前にあり、キスをされていた。
僕もそれに応じた。周りの目が気にならない程、気持ちが高まっている。
「お幸せに!」
「できるだけ早くしてあげてね!」
「頑張れよ!」
周囲のお客さん達からも、温かい言葉をいただいた。
「ありがとうございます!」
僕と亜希ちゃんは立ち上がって皆さんに頭を下げた。
僕達はこれ以上ないというくらいの幸せな気持ちに包まれて、店を出た。
「武彦」
亜希ちゃんが強く腕を組んで来た。
「何?」
まだ上気している顔をチラッと向けて、尋ねる。
「ありがとう。また私が暴走しそうだったのに気づいてくれて」
亜希ちゃんは涙ぐんだ目で僕を見上げていた。
「あ、うん……」
あまりにも可愛い亜希ちゃんを見て、邪な気持ちが起りそうになった自分を心の中で戒めた。
角度的に胸の谷間が見えてしまっている上に、柔らかいものがギュウッと押しつけられていて……。
今夜は眠れるかな……?
「武彦」
また亜希ちゃんが呼びかけて来た。僕は自分の心を覗かれないように眩しそうに目を細めて亜希ちゃんを見る。
「大好きよ」
「僕も大好きだよ」
木陰でもう一度キスをした。
そして、その日のメインであるレストランに行き、ささやかだけど、亜希ちゃんの試験の合格のお祝いをした。
シャンパンで乾杯して、フルコースのディナーを食べて……。
でも、以前の事があったので、亜希ちゃんはお酒を控えていた。
「また武彦にキスを迫ったりしたら、恥ずかしいから」
もじもじして言う亜希ちゃんは飛び切り可愛かった。
亜希ちゃんの従兄の忍さんの結婚式の二次会での事を言っているのだ。
あの時の亜希ちゃんは、弾けていて、ある意味素敵だったけど。
本人にしてみれば、封印したい所謂「黒歴史」なのだろう。
「僕は大歓迎だけどね」
微笑んで言うと、
「武彦のエッチ」
そう言われて、顔が引きつってしまった。ある意味当たっていたからね。
建前では、亜希ちゃんとそうなりたくはないと思いながらも、心のどこかで、そんな気持ちがあるのは否定できない。
それが悪い事だとは思っていないが、僕らには似合わないと考えているだけだ。
それでいい。背伸びしても、つらいだけだ。
僕達は僕達。他人は他人。それでいいと思うんだよね。