その三百十(姉)
早いもので、また新しい年になった。そして、愛息の憲人はもうすぐ一歳になる。
私は力丸美鈴。まだまだ新米ママ。一年間の育児休暇で、すっかり仕事の感覚が鈍ってしまっているようで怖い。
「少しずつ、馴らしていかないとね」
優しい我が夫の憲太郎君が、出かける時にそう言ってくれた。
「ありがとう、憲太郎」
お礼に不意打ちのキスをすると、
「ちょっと、美鈴、そういうのはさあ……」
顔を真っ赤にして照れていた。恥ずかしがりなんだから、全くもう。
と思っていたら、玄関のドアの向こうに宅配便のお兄さんの驚く顔が見えた。
見られたのか? 私は苦笑いをして、
「ご苦労様です」
引きつった顔で荷物を渡してくれたお兄さんに告げた。
さっき、ドアフォンで応対したのを忘れて、やっちまったって感じだ。
「し、失礼しました!」
まずいものを見てしまったかのように、お兄さんは素早く立ち去った。
「美鈴はオッチョコチョイをもう少し直さないとね」
憲太郎君に真顔で言われ、少しだけ落ち込んでしまった。
一月ももうすぐ終わりになる。
愚弟の武彦の彼女である都坂亜希ちゃんは、社会福祉士の試験を受けたばかり。
成績優秀な彼女なら、武彦の時程心配する必要もないと思われるが、福祉関係の仕事に就いた友人に尋ねると、社会福祉士の試験は国家試験なので、かなりのハイレベルだと教えてくれた。
だがそれでも、あの亜希ちゃんなら、絶対に大丈夫。何しろ、私の最大の強敵だったのだから。
そう、「弟大好き症候群」の私にとって、武彦の彼女の亜希ちゃんは、ライバルだったのだ。
敢えて過去形にしてみた。でなければ、亜希ちゃんにも失礼だし、何よりも憲太郎君に申し訳ないからだ。
おっと、話がズレてしまった。
武彦は教員試験の二次選考にも合格し、今は本採用の連絡待ち状態。
成績順に採用されるって、厳しい世界だよなあ、教員て。
しかも、合格したからって、必ず採用されるって事ではないそうだし。
過酷過ぎて、私だったら、胃に穴が開きそうな気がする。
武彦はよく堪えていると思う。
亜希ちゃんも、試験の合格発表が三月中旬だそうで、卒業式の前なのだ。
凄く微妙な時期だと思った。それも私には堪えられそうにない。
武彦に言っても信じてもらえないだろうけど、実はガラスのハートなのだ。
憲太郎君にも信じてもらえないか……。ああ、また落ち込んでしまいそうだ。
そんな私の心の揺れを感じたのか、憲人が泣き出した。
おっぱいの要求だろう。ベビーベッドから抱き起こし、徐に授乳を開始した。
元気よく吸い付く我が息子を見て、涙が零れそうになった。
出産の時は、どうなるかと思うような事態に陥った。でも、何事もなくここまで来られてよかった。
満足げにゲップをする愛息をベッドに寝かせ、朝食の後片付けをする。
洗い物は憲太郎君がすませてくれているので、後は食器棚にしまうだけだ。
イクメンとしても最高の我が夫には、感謝してもし切れない。
お風呂はもちろんの事、おむつも取り替えてくれる。まさに至れり尽くせりな夫なのだ。
仕事もこなした上での育児参加なので、あまり無理しないでね、と言った事がある。
すると憲太郎君は、
「自分の子供の事で、無理をしているなんて思った事ないよ。気遣ってくれてありがとう」
超優等生な返事をしてくれた。ああん、惚れ直しちゃう!
だが……。
先日、それはちょっと違うという事がわかった。
憲太郎君のお姉さんの沙久弥さんが愛息の隆久君を連れて来てくれた時の事だ。
成長が早いという隆久君は、すでにしっかりした足取りで歩いている。
さすが、沙久弥さんの子供、という感じ。
「憲太郎は、育児に参加しているかしら?」
未だに「ザ・美少女」健在の沙久弥さんに微笑んで尋ねられた。
その微笑みにちょっとだけ気後れしながら、
「はい。もう完璧なイクメンぶりですよ」
大袈裟でも何でもなく、そう応えた。すると沙久弥さんはまさしく鈴を転がすように笑って、
「そうなの。よかったわ。私がしっかり指導した甲斐があったわね」
「は?」
キョトンとしてしまった私。
沙久弥さんは、私が妊娠している間、憲太郎君を何度か呼びつけて、育児の心得を説いたのだそうだ。
本人は否定しているけど、お姉さん大好きな憲太郎君の事だから、それはしっかり骨身に叩き込んだだろう。
想像に難くない。
「仕事を理由に育児を妻に任せきりにするのは、只の甘え。そして、子育ては両親の権利であり、義務でもある。だから、どれ程仕事で疲れて帰っても、何か一つは必ずこなしなさい」
沙久弥さんのありがたいお言葉により、憲太郎君は日夜育児をこなすイクメンになったのだと知り、苦笑いした。
まあ、理由はどうあれ、頑張っている憲太郎君は素敵だから、いいんだけど。
二人目も早く欲しいけど、憲太郎君の仕事がかなり立て込んで来ているようなので、もう少し待とうかな。
いよいよ大変だったら、武彦に頼んじゃおうか。
あ、いけない。弟大好き症候群を脱するつもりだったのに、またあいつに頼ろうとしてしまった。
それに、武彦も、大学を卒業して仕事を始めれば、忙しいだろうしね。
何て言い訳している、相変わらず弟大好きなお姉さんだった。