その三百七
僕は磐神武彦。大学四年。
長い間の懸案だった多田羅美鈴さんとの問題も、多田羅さんの伯父さんである亮さんの登場により、一気に解決した。
誰の言葉も受け付けなかった美鈴さんが、僕の亡き父の事故の当事者である亮さんの言葉を受け入れたのは、驚きだった。
やはり、彼女は伯父さんの「不遇」を悲しみ、僕達を憎んでいたのだった。
だからこそ、その伯父さんに何度も諭されて、自分の非に気づけたのだろう。
いや、一概に彼女の思いを「非」と断じるのは早計かも知れない。
僕が美鈴さんの立場だったら、と思うと、そんな考えも浮かんでしまった。
「武彦ったら、多田羅さんに『大好き』って言われて、デレデレしてるんじゃないの?」
美鈴さん達と別れて、大学で合流した彼女の都坂亜希ちゃんに話をしたら、そう言われてしまった。
やっぱり、美鈴さんに「大好き」と言われた事は伝えるべきではなかったと後悔した。
「そ、そんな事はないよ……」
嫌な汗が背中を流れるのを感じながら、僕は亜希ちゃんに応じた。
「冗談よ、武彦。女の子には誰にでも優しいから、ちょっと意地悪言っただけ」
亜希ちゃんが悪戯っぽく笑って言う。僕は苦笑いするしかなかった。
「美鈴さんは、都の教育委員会にも連絡して、直に教育委員の皆さんに謝罪もしたそうだよ。委員の皆さんは、彼女の気持ちも酌んでくれて、お咎めはなしだったらしいし」
「そう。よかったね、武彦。妙な痼りが残らなくて」
「うん」
僕は周りに誰もいない事を確かめて、亜希ちゃんを抱き寄せた。
「え? どうしたの?」
亜希ちゃんが目を見開いて僕を見つめる。こんな事をした事がないからだろう。
「ありがとう、亜希。いつも亜希がそばにしてくれたから、僕は挫けずにここまで来られたんだ。本当にありがとう」
そう言って、強く抱きしめると、亜希ちゃんが震えているのに気づいた。
「武彦……」
亜希ちゃんは目を潤ませて僕を見ていた。僕達はそっと口づけした。
「当たり前じゃない。私は武彦の彼女なんだよ。誰よりも近くにいるんだよ」
亜希ちゃんが涙を一粒右の目から零したのを見て、僕も泣いてしまった。
その日はバイトは休みだったのだが、亜希ちゃんと一緒にコンビニに行った。
店長にもお世話になったので、合格の報告を兼ねて、である。
店長と同僚達が喜んでくれたのは、僻みではなく、亜希ちゃんが一緒だったからのような気がした。
「磐神先輩、おめでとうございます!」
一年後輩の経済学部の長須根美歌さんが泣きながら言ったので、僕は焦ってしまった。
「ありがとうございます」
僕は亜希ちゃんと共に頭を下げて、お礼を言い、コンビニを後にした。
「次は二人の結婚報告かな?」
店長が最後にそう言ったのを聞き、僕と亜希ちゃんは顔を見合わせて赤面した。
駅までの道すがら、姉にも電話をして、多田羅美鈴さんとの和解を報告した。
「そうか。よかったな。きっと父さんも喜んでいるぞ」
姉は涙ぐんでいるらしく、声が擦れて聞こえた。
「姉ちゃんと名前が同じだから、きっとわかり合えるって思っていたんだよ」
お世辞ではなく、そう言うと、
「だろ? だろ? な? 美鈴という名前に悪い人間はいないんだよ、武」
妙にハイテンションで応じられたので、ちょっとだけ引いてしまった。
横で聞いていた亜希ちゃんも苦笑いしている。
「あ、姉ちゃん、母さんからキャッチが入ってるから、切るね」
強引グマイウェイの姉でも、相手が母だと引き下がらざるを得ないらしく、素直に通話を終えてくれた。
「武彦、おめでとう! 今日こそ、お寿司とろうね!」
母も姉に負けないくらいテンションが高かった。
「ありがとう、母さん。それからね」
僕は多田羅家との和解を報告した。母は一瞬黙り込んでしまったが、
「そう。よかった。父さんも喜んでくれると思うよ」
姉と同じ事を言われたので、少しその偶然に驚いた。
「これで、ようやくすっきりしたよ」
「そうだね。あ、もう仕事に戻らないと」
母は慌ただしそうに通話を切った。僕は次に高木睦美先生の連絡した。
「そうか。よかったな、磐神。お前の粘り勝ちだな」
高木先生は、多田羅美鈴さんの事はしばらく忘れろと言っていたのだ。
「ありがとうございます」
「須芹先生はもう帰ったから、彼女の携帯に連絡してくれ」
高木先生にそう言われ、僕はビクッとして亜希ちゃんを見た。
「先生、僕は須芹先生の携帯の番号を知りませんよ」
焦って言うと、高木先生は、
「あれ? そうだったか? 『武彦君』とか呼ばれているから、プライベートでも交流があるのかと思っていたんだが」
亜希ちゃんを刺激するような事を言わないでください。そう言いたかった。
一応、高木先生から須芹先生のご自宅の電話番号を聞き、そこへかける事にした。
携帯の番号を聞いたら、また亜希ちゃんにムッとされてしまうからだ。
須芹先生は、姉の夫の憲太郎さんの中学の同級生なんだから、嫉妬しないで欲しいんだけどな。
「あら、武彦君。どうしたの?」
教員試験の二次選考に合格したのは報告済みなので、何故連絡したのか思い当たらなかったのだろう。
そう言われてしまった。僕は多田羅さんの事を話した。
「そう。伯父さんが間に入ってくれたのね」
須芹先生は感慨深そうだ。
「はい。亮さんは、一週間だけ日本にいる予定だったんです。だから、まさに奇跡的なタイミングですよ」
「武彦君のお父さんが導いてくれたのかもね」
不意にそんな事を須芹先生が言ったので、僕はドキッとした。
いや、本当にそうかも知れない。少しでもタイミングがずれれば、僕達はまだわかり合えなかったかも知れないのだから。
(父さん、ありがとう)
僕は心の中で、亡き父にお礼を言った。
さあ、後は実際に採用されるのがいつか、だ。こればかりは自分の力ではどうにもならないけど。