その三百五
僕は磐神武彦。大学四年。
月日はあっという間に過ぎ去り、遂に教員試験の二次選考の結果発表の日が来た。
昨夜はほとんど眠れない程気持ちが昂ってしまった。
そして、今朝は日の出前には目が覚めてしまい、悶々としていた。
母を起こしてはまずいと思い、そっと階下に降りて行くと、まさに似た者親子を絵に描いたように、母も既に起きていた。
「おはよう、武彦。よく眠れた?」
目の下に隈を作った母が、微笑んで言った。僕も同じか、もっと酷い隈ができているだろうと思いながら、
「いや、あまり眠れなかったよ」
「そう。母さんもよ」
互いに苦笑いした。
洗面をすませてから、まだ暗いキッチンに行き、明かりを点けて母が淹れてくれたお茶を飲んだ。
まだかなり熱かったので、火傷をしそうになったが、何とか堪えられた。
ふと気づくと、スウェットのポケットに入れていた携帯が震えていた。
こんな朝早く、誰だろうと思って見ると、彼女の都坂亜希ちゃんからだった。
僕はキッチンを出て、廊下で通話を始めた。
「おはよう、武彦。もう起きてるのね?」
亜希ちゃんが言った。僕は微笑んで、
「おはよう、亜希。亜希こそ、もう起きているんだね?」
すると亜希ちゃんは、
「だって、武彦の面接の結果が今日発表なんでしょ? 全然眠れなかったんだから」
やや非難めいた口調だ。僕は、
「ごめん、心配かけて」
「ううん、それはいいんだけどさ」
亜希ちゃんの心遣いに感動してしまった。
「朝食食べたら、そっちに行ってもいい?」
「あ、うん、いいよ。待ってるね」
「うん」
通話を切り、キッチンに戻ると、母がジッと僕を見ているので、
「亜希ちゃんからだよ」
「いい彼女ね。絶対に幸せにしてあげないとね」
また気の早い事を言い出した。
「そうだね」
そこを窘めたところで、話が長くなるだけなのは、姉と同じなので、何も言わないのが吉なのだ。
朝食中は、何も話さなかった。母が気を遣ってくれたのだろう。
「行ってくるね」
母はまさに後ろ髪を引かれるような顔で出勤した。今日は早番なので、結果が出る午前十時まで待っていられないのだ。
「メールで連絡するから」
「わかった」
母は途中で亜希ちゃんと会い、少しだけ話をしてから、駅へと走って行った。
「おばさん、一緒にいられないのが悲しそうだったわ」
亜希ちゃんが玄関で教えてくれた。僕は苦笑いして、
「ありがたいんだけど、仕事なんだから、仕方ないよ」
「その分、私がいてあげるから」
亜希ちゃんがグイッと腕を組んで来る。また例のあれがムギュッと腕に当たった。
でも、喜んでいる場合ではない。
「ありがとう、亜希」
僕達は居間に行き、都庁のホームページに結果が掲載される時間になるのを待った。
今日は一時限目の講義をサボる事にしたのだ。
インターネットが普及する前は、都庁まで行くか、通知が郵送されるまで待つしかなかった。
すぐに知る事ができるのは、嬉しいような悲しいような……。複雑だ。
僕達は落ち着かずにソワソワしながらその時を待った。
時が過ぎるのをこれほど遅く感じたのは大学の受験以来だろうか?
そろそろ時間だと思い、携帯でアクセスしようとすると、いきなり呼び出し音が鳴り出した。
姉からだった。全く。
「ど、どうだった?」
うわずった声が受話口から聞こえた。僕はちょっとイラッとして、
「まだだよ! 姉ちゃん、気が早過ぎるよ。今から見るところなんだから」
「ああ、そうか、ごめん。わかったら、連絡くれ」
そう言うと、サッサと通話を切る姉。マイペースこの上ない。
僕は深呼吸して、携帯を操作した。亜希ちゃんがそれを固唾を呑んで見守っているのがわかり、余計緊張して来た。
ホームページにアクセスし、確認する。スクロールする指が震えた。
「武彦、落ち着いて」
亜希ちゃんが背中から抱きしめてくれた。そんな亜希ちゃんも震えているのがわかる。
「あった……」
僕は自分の受験番号を見つけ、ボソッと言った。
「武彦!」
亜希ちゃんが抱きついて来た。そして、いきなりのキス。しかも、情熱的なバージョン。
僕も辛うじてそれに応える事ができた。
しばらく、亜希ちゃんの「ご褒美」の余韻に浸ってから、まずは姉に連絡した。
「姉ちゃん、合格したよ」
「よかったな、武彦!」
姉は泣いているようだった。もらい泣きしそうになったが、まだたくさん連絡しなければならないところがあるので、何とか堪えた。
次に母の携帯にメールで連絡した。母は多分仕事中だから。ソワソワしているだろうけど。
そして、姉の義理のお姉さんである沙久弥さんに連絡。
亜希ちゃんが怒ると困るので、手短にすませた。
それから、時間を見計らって、教育実習でお世話になった高木睦美先生に連絡した。
ちょうど先生は休憩時間だったので、少しだけ話ができた。
そして、居合わせた須芹日美子先生とも話ができた。
お二人と話すと、どうしても多田羅美鈴さんの事を思い出してしまうが、今は話題にしない。
「これからが本当に根気のいる段階だからな」
最後に高木先生が言ってくれた。教員採用試験合格は、あくまでスタートラインに立てただけなのだ。
「ありがとうございます」
僕は電話だけど、深々と頭を下げ、通話を終えた。
そして、亜希ちゃんが淹れてくれたコーヒーを飲んで、一息吐き、大学へ行こうと居間を出た時、携帯が鳴った。
開いてみると、見知らぬ番号からだった。誰だろうと思いながら、
「もしもし?」
「磐神武彦さんの携帯電話ですか?」
男の人の声だ。高木先生くらいの年だろうか?
「はい、そうですが、ええと?」
僕は相手の男性に先を促した。するとその男性は、
「私は、多田羅亮と申します」
あまりにも意外な人からの電話に、僕は一瞬頭の中が真っ白になってしまった。




