その三百四(姉)
愚弟が愚弟でなくなっていく。寂しさを感じながら、感慨にも耽っている。
私は力丸美鈴。まだまだ新米ママ。
愛息の憲人の成長も嬉しいが、愚弟の武彦が教員試験の一時選考に合格し、二次選考の面接も終えたのを知り、いよいよ奴が社会人への道を歩き始めた事を実感した。
やがて、恋人の都坂亜希ちゃんと結婚するのか……。
弟大好きお姉さんとしては、そこはかなり衝撃なんだろうな。
いくら否定しても、どうしようもない事実だから。
だが、武彦には、結婚の前にもっと難関がある。
多田羅美鈴さん。
武彦の母校の後輩であり、教育実習の生徒でもあった女子。
こんな巡り合わせを作り出したのがもし神様なら、本当に酷いとしか思えない。
「だけど、乗り越えて行くしかないよ」
先日、面接を終えた武彦が電話して来た時、そう言っていた。
「頑張れよ」
そんな無責任な言葉は言えなかった。武彦が頑張っているのは、よくわかっていたからだ。
本当なら、多田羅さんは教育委員会に呼び出され、真相を究明されていたはずなのに、あのバカが妙な優しさを出して、教育委員の皆さんに待ったをかけたのだ。
私なら、徹底的に戦ってやろうと思うところだが、あいつはそうではなかった。
そこがあいつのいいところであり、また悪いところでもあるのだけれど。
「それが武彦君なのよ、美鈴さん。貴女はそんな武彦君を支えてあげる一人なのだから」
ハッと我に返った。
今は私は、夫である憲太郎君のお姉さんの沙久弥さんとそのご主人の西郷隆さんを交えて、レストランで夕食中だった。
隣には憲太郎君、正面には沙久弥さん、斜向いには西郷さん。
つい、武彦の事を愚痴っぽく言ってしまったがために、食前酒のワインを飲んだ沙久弥さんに熱く語られているところだ。
沙久弥さんはワインのピッチが随分早かった。憲太郎君の顔が引きつっているので、私もドキドキしている。
沙久弥さんは決して酒乱ではないのだが、酒が入ると、話が熱くなってしまうのだ。
以前、そんな事があり、沙久弥さんと食事をする時には、立て込みそうな話題は出さないように気をつけていたのだが、ワインがあまりにも口当たりがよくて、私自身、グイグイ飲んでしまったせいだった。
「相手の女子生徒を罰してもらう事は簡単かも知れないけど、それをしてしまったら、武彦君の教員人生に暗い影を落とす事になるわ。だから、武彦君の選択は正しかったと思うの」
ほんのり赤みを帯びた顔で私を真っ直ぐに見て話している沙久弥さんは、女の私が見てもドキッとする程綺麗だった。
心なしか、西郷さんは沙久弥さんをニンマリして眺めている気がした。
「例え茨の道が待っていようとも、それを苦にせずに選択した事を誉めてあげるべきよ、美鈴さん」
沙久弥さんは目がトロンとしていた。飲み過ぎたのだろうか?
「はい。ありがとうございます」
私は真剣な表情で応じ、頭を下げた。すると憲太郎君が、
「姉貴、飲み過ぎだよ。もうその辺でやめといたら」
「飲み過ぎてなんかいません! 貴方に私の何がわかるというの、憲太郎?」
沙久弥さんはトロンとした目を吊り上げるというかなりな高等技術を駆使していた。
「沙久弥、憲ちゃんの言う通りだよ。もうそこまでにして」
西郷さんが真顔で告げる。沙久弥さんは西郷さんをキッとして睨んだ。わ、ちょっとまずいのでは……。
私はその先を何となく予想して、ソワソワしてしまった。ところが、
「ごめんなさい、隆君」
何故か素直に謝った沙久弥さん。呆気に取られてしまい憲太郎君を見た。
「姉貴はね、酔っている時は西郷先輩に絶対服従なんだよ」
憲太郎君が小声で教えてくれた。それを知り、沙久弥さんが可愛く思えた。
「憲太郎、私の悪口を言ったわね!」
しかし、弟である憲太郎君にはあくまで強気な姉であるところも、また沙久弥さんらしくて素敵だ。
「沙久弥」
西郷さんが真顔で言った。すると沙久弥さんはしょんぼりしてしまい、
「ごめんなさい、隆君」
まるで先生に叱られた生徒みたいだった。
その後は、双方の愛息の自慢話に移り、和やかな雰囲気で食事は進んだ。
お二人の子供の隆久君の写真を見せてもらったが、すでに父親の西郷さんそっくりになって来ており、とても乳幼児には見えない貫禄すら漂わせていた。
もちろん、我が愛息の憲人も十分可愛かったのだが、成長速度が隆久君と違うみたいだった。
当然、一年の長があるので、隆久君が大きいのは当たり前なのだが、憲人と同じくらいの頃の写真がびっくりだった。
髪はふさふさ、眉毛は極太、歯も前歯が何本か生えている。
同じ人類なのだろうかと失礼な事を考えてしまった程だ。
「人は皆平等だけど、当然の事ながら、生物学的には個人差があるわ。だから、人は素晴らしいのよ」
また沙久弥さんが熱く語り出してしまった。
西郷さんも呆れ顔だ。憲太郎君はうんざりしている。
ここは一つ、私が可愛い義妹を演じるしかあるまい。
私は満面笑顔で、沙久弥さんの話を拝聴させてもらった。
しばらくして、食事会はお開きになり、半分眠りかけている沙久弥さんを軽々と背負った西郷さんが、
「お疲れ様」
私達に労いの言葉をかけてくれた。
「いえいえ、大変勉強になりました。ありがとうございました」
私は社交辞令でも何でもなく、心の底からそう思って礼を言った。
「美鈴さん、お休みなさい」
文字通り、沙久弥さんはそう言うと、本当に眠ってしまった。
何だか、父親に背負われている娘みたいだ。
ふと、亡き父の事を思い出してしまい、そこからまた多田羅さんとの事を連想してしまった。
今はもう武彦に任せるしかない。あいつも昔と違って、自分一人で何でもできるようになったのだ。
私が口を出す事ではない。
そう思い、憲太郎君と腕を組んで、家路に着いた。
だが、そんな決意は脆くも崩される事になるとは、その時の私は夢にも思わなかった。




