その三百三
僕は磐神武彦。大学四年。
人生で一番ドキドキした教員試験の二次選考の日。
何しろ、面接なんて、コンビニのバイト以来久しぶりだったので、頭で考えていた以上に緊張してしまった。
個人面接はともかく、集団面接は余計緊張した。
一緒に面接を受ける人達が、誰も彼も優秀に見え、自分が一番ダメな人間に思えてしまったからだ。
面接前にちょっとだけ話をしたのだが、ほとんどの人が教育学部で、両親のどちらかが教員だったりした。
僕も父が教員だったけど、仕事の話をできるようにならないうちに父が亡くなってしまったので、それはそれで残念に思った。
父が生きていたら、どんな話をしていただろうか?
母と同じように、教員になるのを反対しただろうか?
そんな事まで考えた。
面接本番。とにかく、やれるだけの事はした。後は待つ事しかできない。
そう自分に言い聞かせて、ジリジリと焼け付くような暑さの中、僕は家路に着いた。
「只今……」
玄関のドアを開けて中に入ると、母と彼女の都坂亜希ちゃんが目を潤ませて出迎えてくれた。
「お帰りなさい」
その佇まいに僕は圧倒されてしまい、一瞬硬直してしまった。
引き摺られるようにして居間に入り、お茶を出された。
「ありがとう」
母と亜希ちゃんは僕がお茶を一口飲むのを見届けてから。
「それで、どうだった?」
練習したかのように同時に言った。僕は思わず吹き出してしまい、
「何がおかしいの!?」
ハモりで怒られてしまった。母と亜希ちゃんも、それには自分達で顔を見合わせて、笑っていたけど。
「どうだったって言われても、とにかく、できる事はしたとしか言いようがないよ」
僕は苦笑いして告げた。
「そうだね。そうだよね」
母はバツが悪そうに言い、亜希ちゃんを見る。亜希ちゃんはそれに頷いて、
「大丈夫。武彦だったら、必ず合格するから」
また二人して目を潤ませ、僕をジッと見つめるので、気恥ずかしくなってしまう。
「ありがとう」
僕は亜希ちゃんに礼を言い、母には頷いてみせた。
「じゃあ、前祝いしちゃおうか」
母が言い出す。
「そうですね」
亜希ちゃんが応じる。僕は慌てて、
「気が早いよ! 結果の発表は十月なんだから、もう少し待ってよ」
「武彦は相変わらず慎重ね」
母がやや呆れ気味に言い放ったのには、ちょっとびっくりした。
最初は教員にならないでって言ってたのに……。
「だって、いろいろ立て込んでるでしょ? 教員試験に合格したら、次は大学卒業で、それから、二人の結婚で……」
母が暴走を始めた。亜希ちゃんも「二人の結婚」と言われ、顔を赤らめている。
僕も顔が火照っているのを感じた。
「母さん、気が早過ぎだよ。教員試験に合格しても、採用される訳じゃないんだよ」
僕の言葉に母は目を見開き、
「ええ? どういう事?」
普通は試験に合格すれば、採用されるというのが当たり前だろう。
でも、教員の試験合格は、「教員候補名簿」に名前が登載されるだけなのだ。
即採用ではないのが、教員の道の難しさなのだ。
「欠員が出なければ、採用にはならないんだよ。場合によっては、何年も採用がない可能性だってあるんだから」
僕が説明すると、母はがっかりしたみたいだ。
「どうしてそんな茨の道を選んだのよ、もう……」
小学校の教員だった父と結婚したのに、何も知らなかったんだ、母は……。
「私は待つよ、何年でも。大丈夫だから」
亜希ちゃんが笑顔で言ってくれたが、それはそれでプレッシャーだな。
「武彦、亜希ちゃんを待たせちゃダメよ。すぐにでも採用されて、結婚しないとね」
母がまた話を蒸し返す。亜希ちゃんも僕も顔が熱くなる。
「大丈夫ですから。私、待ちますから。場合によっては、入籍だけして、式はその後でも……」
亜希ちゃんは火照った顔を扇ぎながら、母に言う。何だか、採用されるのに何年もかかりそうなのが前提になっているよ。
それはちょっと癪に障るんだけどね。
「ありがとう、亜希」
僕はそれでも亜希ちゃんの気持ちが嬉しくて、母がいるのに手を握りしめた。
「あらあら、私はお邪魔ですか?」
母はニヤリとして立ち上がり、居間を出て行った。
僕は亜希ちゃんと顔を見合わせた。
「面接まですませたら、後は待つしかないんだ。亜希には迷惑をかけるかも知れないけど……」
僕は母が聞き耳を立てているかも知れないと思い、声を低くして言った。
「そんな水臭い事言わないで、武彦。私、迷惑だなんて思わないから。むしろ、嬉しいんだから」
亜希ちゃんがますます目を潤ませて、僕に顔を近づけて来た。もしかして、これは……。
僕はもう一度キッチンへのドアを見てから、亜希ちゃんにキスをした。
今までで一番心臓に来たキスだった。母に見られるかも知れないと思ったから。
「武彦……」
亜希ちゃんはとうとう涙を零してしまった。僕ももらい泣きしそうだ。
しばらくして、亜希ちゃんが帰る事になった。
「送ってあげなさい、武彦」
母に押し出されるように僕は玄関を後にし、亜希ちゃんと並んで彼女の家に向かった。
「武彦、本当に無理しないでね。私は待つよ。何年でも」
「あ、うん……」
僕は複雑な思いで応じた。すると亜希ちゃんは何かを察したのか、
「ああ、ええと、武彦が採用されないって思っている訳じゃないよ。私も、高校の時の友達の旦那さんが教員で、採用まで大変だったって聞いた事があるから……」
申し訳なさそうに言い添えたので、僕は微笑んで、
「そんな事、気にしなくていいよ。教員に実際になれるのが大変なのは、僕も先生方から伺ってわかっているからさ」
「ありがとう、武彦」
亜希ちゃんは家の前まで来ると、僕を玄関の脇に引き込んで、キスをしてくれた。今度は遠慮が要らない分、長く濃厚なキスだった気がする。
「じゃあね」
亜希ちゃんは名残惜しそうに玄関に入っていった。僕はそれを見届けてから、家に戻った。
合格発表まで約二か月。長いような気がした。