その三百二
「お前、最近、全く憲人の顔を見に来ていないだろ? 忘れられちゃうぞ」
姉からそんな脅迫まがいの連絡をもらった。
僕は磐神武彦。大学四年。教員試験の二次選考を二週間後に控え、最後の調整をしているところだ。
「わかったよ。今度、亜希と一緒に行くよ」
「そ、そうか」
姉は僕がすぐに返事をするとは思っていなかったのか、やや狼狽えているような気がした。
僕が煮え切らないので、はっきりしろと言うつもりだったのかも知れない。
姉が考えている事なら、手に取るようにわかる。
そんなの、何の自慢にもならないけど。
僕はいいとしても、彼女の都坂亜希ちゃんに都合を聞かないといけない。
ダメとは言われないとは思ったけど、事後承諾のような形になった事は申し訳ないと感じつつ、亜希ちゃんに連絡すると、
「もちろん、大丈夫よ! 憲人君、大きくなったよね」
弾んだ声で応じられ、みっともなくも憲人に嫉妬してしまった。バカだな、本当に。
「そうだね。もうそろそろ、皆の顔がわかるんじゃないかな?」
「そうね」
亜希ちゃんの子供好きは最近激し過ぎる。
姉の義理のお姉さんである沙久弥さんの更に義理のお姉さんの恵さんのお嬢さんの莉子ちゃんと真子ちゃんに懐かれ、子供がますます欲しくなっているし……。
高校の同級生の武皆方(旧姓:富谷)麻穂さんの子供も頻繁に見に行っているようだ。
「私達も早く赤ちゃん欲しいね」
亜希ちゃんのその発言は、日増しに増えている。
以前は誰もいないところで言ったのだが、近頃は誰かがいても関係ないようだ。
昨日もカフェでその話が始まった。
「姫ちゃんのとこ、二人目ができたみたいよ。びっくりだよね」
姫ちゃんとは、中学の同級生である須佐(旧姓:櫛名田)姫乃さんの事。
同じく中学の同級生である須佐昇君とデキ婚をし、現在須佐君が櫛名田家に入り婿状態で暮らしている。
二人も、僕らと同じくまだ大学生なのに、既に二人目って……。
「姫ちゃん、きょうだいがいないでしょ? だから、どうしてもって、須佐君に頼んだらしいの」
亜希ちゃんは何故か顔を赤らめて言った。そうか、僕にせっついているみたいで、恥ずかしいのかな?
そう思うと、僕も恥ずかしくなってしまう。
「私もきょうだいがいないから、子供はたくさん欲しいな」
亜希ちゃんがニコッと小首を傾げて言ったので、僕は危うく鼻血を垂らしそうになった。
決して、嫌らしい想像をしたのではないんだけど……。
「そ、そうなんだ」
それだけ返すのがやっとだった。
そして、姉のマンションに行く当日になった。
一緒に行けない母から、あれこれ届け物を預かり、何度も憲人の写真を頼まれた。
名残惜しそうに出かける母をやや呆れ気味に送り出し、僕は亜希ちゃんの家に向かった。
「武彦、早く早く!」
亜希ちゃんが前の路地まで出て手を振っている。苦笑いしてしまった。
「私の事、忘れちゃってるかな、憲人君?」
駅に向かいながら、亜希ちゃんはその事ばかり気にしていた。
いや、そもそも、前に会った時は、まだ憲人は誰が誰だかわかっていなかったと思うよ。
「いらっしゃい!」
ドアフォンを鳴らすと同時に姉がドアを勢いよく開けたので、僕はもう少しで顔をぶつけるところだった。
「お邪魔します……」
亜希ちゃんはテンションが高過ぎる姉に引き気味に応じていた。
「美鈴さん、武彦と会うのが楽しみだったみたいね」
亜希ちゃんが悪戯っぽく囁いた。僕は苦笑いするしかない。
「憲人くーん!」
亜希ちゃんは姉がベビーベッドから抱き上げた憲人を見てテンションMAXになったようだ。
満面の笑みを浮かべると、足早に近づいた。
「憲太郎さんは?」
僕は姉が亜希ちゃんに憲人を抱かせているのを見ながら尋ねた。すると姉は急にムッとして、
「あいつ、いつの間にか、会社人間なのよ。今日だって、いきなり仕事だからって出かけちゃってさ。ねえ、憲人」
亜希ちゃんに抱かれて若干緊張気味に見える憲人のほっぺを軽く突ついた。
「そうなんだ」
その時、僕は亜希ちゃんが想像以上に焦っているのに気づき、
「憲人、未来の叔母さんだよ」
少しだけ大胆な事を言ってみた。すると亜希ちゃんはギクッとして、
「や、やだ、武彦、叔母さんはやめてよ! せめて、お姉さんで……」
「いやいや、憲人にとっては亜希ちゃんは叔母さんだよ。それは無理」
姉まで悪乗りして言い出した。亜希ちゃんは、
「美鈴さんまで、酷いですう」
口を尖らせるが、僕と姉は笑って取り合わない。すると、憲人がキャッキャと笑い出した。
「憲人君、笑ったね! 面白かった?」
亜希ちゃんは嬉しそうに憲人に顔を寄せ、今にもほっぺにキスをしそうだ。
「武彦、自分の甥に嫉妬は見苦しいぞ」
姉に突っ込まれてしまった。僕は図星を突かれて顔が火照るのを感じたが、
「ち、違うよ!」
そう言って亜希ちゃんをチラッと見ると、凄く嬉しそうに憲人に頬ずりしていたので、ますます嫉妬してしまった。
その上、憲人自身も嬉しそうに笑っているので、しまいには姉まで嫉妬しているように思えた。
亜希ちゃんが席を外した時、姉が授乳を終えて憲人を寝かしつけながら、
「あの子の事はどうなんだ、武彦?」
真剣な表情で尋ねて来た。あの子って、多田羅美鈴さんの事だろう。
「大丈夫だよ。今はあまり気にしていないから。落ち着いたら、また考えてみようと思っているんだ」
僕は小声で返した。姉は小さく頷き、
「無理するなよ」
「うん、わかってるよ」
僕も小さく頷いてみせた。
「あら、お邪魔でしたか?」
亜希ちゃんが戻って来て言った。僕と姉は思わず赤面し、
「そ、そんな事ないよ!」
異口同音に叫んでしまった。はあ。亜希ちゃん、時々お茶目だからなあ。
多田羅さんとの事は、なかった事にはできない。いつか解決しないと。
そして、それは僕の予想を超えた形で実現に近づく事になる。




