その三百
僕は磐神武彦。大学四年。
何とか、教員試験の一次選考に合格した。
久しぶりに大泣きしてしまった。
彼女の都坂亜希ちゃんと抱き合って喜んだ。
そして、亜希ちゃんを送り出してから、姉に連絡した。
姉は我が事のように喜んでくれたが、大声を出したせいで、愛息の憲人が泣き出したので、あっさり携帯の通話を切ってしまった。
姉らしいと言えば、姉らしいか。
仕事中の母にはメールで知らせておいた。
返信は、僕がバイト先のコンビニに到着した時にあった。
「おめでとう、武彦。今日はお寿司でもとろうか?」
母も姉と一緒で気が早過ぎる。僕は、
「まだ二次選考の面接があるから、その後にして」
そう返しておいた。
考えたくはないが、一次選考に合格したからと言って、浮かれていると痛い目に遭うとネットの書き込みで見たのだ。
その書き込みを鵜呑みにしている訳ではないが、自分を戒める意味でも、まだ安心してしまうのは早計なのだと考えた。
バイト先の皆さんには、着いてから報告した。
同僚達ははしゃいでいたが、店長は、
「まだ二次選考があるんだろう? 気を引き締めて」
冷静に諭してくれた。何だかとっても嬉しかった。
「先輩なら大丈夫です!」
一年後輩で経済学部三年の長須根美歌さんが言ってくれた。
彼女は涙ぐんでいたので、キュンとしてしまった。
ごめん、亜希ちゃん。決してそういう意味ではないんだけど、心を動かされてしまった事に後ろめたさを感じた僕は、心の中で亜希ちゃんに土下座した。
「間島君も、教員を目指すって言ってるんです。その時は、よろしくお願いします」
長須根さんは、自分の彼氏の間島誠君が僕と同じ道を進むのを知り、尚の事、僕の事が心配らしいのだ。
「もちろんさ。僕でできる事なら、何でも協力するよ」
僕は長須根さんに握りしめられた手を握り返し、今度は間島君に心の中で詫びた。
あくまで、長須根さんは妹的な存在であって、決してそういう存在ではないんだよ、と言い訳をしながら。
ああ、やっぱり、亜希ちゃん、ごめん……。
「武彦君、おめでとう。よかったね」
午後になると、近所に住んでいる磯城津実羽さんが、一人娘の皆実ちゃんと来店した。
どうして知っているんだろうと思ったら、母が現在交際している(と表現すると本人に怒られるのだが)日高建史さんに連絡したらしい。
そして、日高さんの次女である実羽さんに伝わったのだ。
それにしても、伝わり方が早過ぎる。母は日高さんと結婚はしないと断言していたが、何だかそれも怪しくなって来た。
「ありがとうございます」
あまりにも意外な伝達力なので、戸惑いながらもお礼を言った。
「武君、おめでとう」
皆実ちゃんも四歳になり、随分大人っぽくなっていた。
その皆実ちゃんが手招きするので、しゃがんで視線を同じ高さにすると、
「おいわいね」
そう言いながら、右頬にキスをされた。
「こら、皆実、何してるの!」
実羽さんが驚いて皆実ちゃんを引き離した。そうしてくれなければ、皆実ちゃんはキスをやめなかったかも知れない。
昨日、姉の義理のお姉さんの西郷沙久弥さんの義理のお姉さんの恵さんの娘さんの莉子ちゃんと真子ちゃんにびっくりさせられたばかりなのに、更に驚いてしまった。
皆実ちゃんも以前にも増して、おませな女の子になっていたのだ。
「ごめんなさいね、武彦君」
実羽さんが謝りながら、僕の右頬をティッシュで拭いてくれた。
いや、そこまでしてくれなくてもと思った。別に汚い事をされたわけではないのだから……。
ああ、更にごめん、亜希ちゃん。
例えまだ幼稚園児だとしても、他の女の子にキスされて、喜んでいる僕はダメな彼だよね……。
ていうか、実羽さんに頬を拭かれている事にドキドキしてしまったのかな……。
実羽さんて、確か姉と同じ年なんだよね。
「磐神君、隙だらけだね」
実羽さん達が帰った後、店長にこっそりと言われてしまった。
確かにそうかも知れない。
以後、気をつけます、亜希ちゃん。
バイトを終え、駅へと向かった。ホームで携帯を見ると、たくさんメールが届いていた。
中学の同級生である須佐昇君、そして、須佐君の奥さんである姫乃さん、更には高校の同級生で、亜希ちゃんの親友でもある伊佐奈美さん、天野小梅さん、武皆方(旧姓:富谷)麻穂さん、姉の夫の憲太郎さん、そのお姉さんの沙久弥さん、そのご主人である西郷さんからもメールが来ていた。
更には、メールのやり方がよくわからないらしい母方の祖父母、そして豊叔父さん、父方の祖父母、従姉の未実さんからもお祝いの電話をもらった。
そして、未実さんと長須根さん繋がりで、妹会のメンバーである沖津未子さんまで連絡をくれた。
恐るべき伝達の早さ……。でも、感動した。
ああ、僕は何て幸せな人間なのだろうかとしみじみと思ってしまった。
そして、何かなんでも、二次選考に合格しようと決意を新たにしたのだった。