その二百九十八
僕は磐神武彦。大学四年。
教育実習に始まる人生で一番きつい出来事がいくらか落ち着きを見せた時、また別の問題が起ろうとしていた。
姉の夫の憲太郎さんのお姉さんである沙久弥さんの夫の西郷隆さんの一番上のお姉さんの恵さんの二人のお嬢さんが突然僕の家にやって来たのだ。
長女の莉子ちゃんは、小学四年生。お母さんにますます似て来て、以前に増して美人になっている。
そして、小学一年生の次女の真子ちゃんも、おしゃまさが増していて、怖いくらいに積極的だ。
二人の登場によって、僕の彼女である都坂亜希ちゃんが、
「新しい彼女が迎えに来てくれたみたいね、磐神君。じゃあね」
本当に怒っている時に発動する「磐神君攻撃」を展開した。
心臓に悪い。小学生に嫉妬しないでと言いたいけど、言えない。
挙げ句に、
「ご機嫌よう、亜希さん」
莉子ちゃんと真子ちゃんが追い討ちをかけるような言葉を言ったので、もう取り返しがつかなくなってしまった気がした。
大袈裟かな?
結局、亜希ちゃんに見捨てられてしまった僕は、二人の小さい魔女を家に入れた。
何故二人が来たのかと言うと、恵さんが同窓会でお出かけなのだと西郷さんからの連絡でわかった。
たまたま非番だった西郷さんは、恵さんから二人を頼まれたのだが、間が悪く、緊急の電話が入り、その応対をしている間に二人がいなくなってしまったのだそうだ。
すぐにでも迎えに来て欲しかったのだが、西郷さんはそのまま緊急配備のために出かけなければならないので、ダメだった。
しかも、恵さんには絶対に話さないで欲しいと懇願されてしまったので、連絡できない。連絡先もわからないけど。
取り敢えず、姉が置いていった漫画があったので、それを二人に読ませ、時間を稼ぐ事にした。
西郷さんはいつ来てくれるのかわからないし、母は遅番なので夜遅くならないと帰らない。
どうしたものかとまさに途方に暮れていると、携帯が鳴った。
僕は二人に気取られないようにリヴィングを出て、廊下で通話を開始した。
驚いた事に、相手は恵さんだった。
「ごめんなさいね、武彦君。ウチの愚弟が」
恵さんは虫の知らせなのか、西郷さんに連絡をしたらしい。
そして、全ての事情を把握して、僕に連絡をして来たのだ。
「美鈴さんから聞いているんだけど、明日、教員試験の一次選考の結果が発表されるんでしょ? そんな時にバカ娘がごめんなさいね」
僕はホッとしたので、
「いえ、大丈夫ですよ。莉子ちゃんと真子ちゃんのお陰で、気持ちの切り替えができました」
それは本当だ。二人が来て、あれこれ騒がしくしているうちに、僕は結果の発表の事をすっかり忘れていたのだ。
そして、恵さんの次の言葉で、また顔が引きつった。
「それで、重ね重ね申し訳ないんだけど、私も同窓会の幹事で、すぐに帰る訳にはいかないし、依里や詠美に頼もうと思ったんだけど、二人共東京にいないのよ。隆が帰るまで、預かってもらえるとありがたいのだけれど……」
恵さんが電話の向こうで頭を下げている光景が浮かぶ程、その声は申し訳なさそうに聞こえた。
依里さんと詠美さんは、西郷家の三女と四女。どちらも酒癖が悪い。
むしろ、あの二人のどちらかが来た方が事態は悪化する気がしてしまう。
「わかりました。大丈夫ですよ。責任を持って、お預かりします」
僕は引きつった顔で無理に笑いながら応じた。
「本当にごめんなさいね」
通話を終えると、心配そうな顔で莉子ちゃんと真子ちゃんがリヴィングから出て来た。
どうやら、会話の内容から、相手がお母さんだとわかったらしく、二人共涙ぐんでいる。
「心配しないで。莉子ちゃんも真子ちゃんも、いい子にしていますって、言っておいたから」
僕はしゃがんで二人の頭を撫でながら告げた。まあ、嘘ではないよね。
「ありがとう、武彦お兄ちゃん!」
「ありがとう、武君!」
二人が泣きながら抱きついて来た。おお、よしよしという感じで更に頭を撫でていると、人の気配に気づいた。
ふと玄関の方を見ると、目を見開いた亜希ちゃんがこちらを見ていた。
ハッと自分を見ると、二人の女の子を愛おしそうに抱きしめ、頭を撫でている状況に気づいた。
「あ、亜希……」
どうしたの、と言いそうになり、言葉を呑み込んだ。そんな失礼な質問はしてはいけない。
「武彦が困っているだろうから、見に行きなさいって、お母さんに言われたから……。でも、大丈夫みたいね」
亜希ちゃんはそのまま振り返って、玄関を出て行こうとしたので、僕は慌てて立ち上がり、莉子ちゃんと真子ちゃんを諭しながら、亜希ちゃんを追いかけた。
「待って、亜希! 一緒にいてくれないかな? しばらく、誰も迎えに来てくれないから」
勝手な言い分だと思いながらも、言わずにはいられなかった。
「お邪魔じゃないの?」
亜希ちゃんはツンとした顔で僕を見た。僕は苦笑いして、
「そんな事ないよ」
僕は莉子ちゃんと真子ちゃんに同意を求めるように視線を向けた。
二人は口を尖らせていたが、
「うん、一緒にいてよ、亜希さん」
莉子ちゃんが言った。真子ちゃんは頷いてみせた。
しばらくして、僕達は店屋物を取り、夕食にした。
僕は縁起を担いでカツ丼、亜希ちゃんもやはり縁起を担いでくれて、たぬきそば(他を抜くという事らしい)、莉子ちゃんと真子ちゃんはハンバーグライスを二人で一つ頼んだ。
いつしか、莉子ちゃんと真子ちゃんも亜希ちゃんに懐いてくれ、いろいろ話をするようになってくれた。
「ねえ、亜希さん、お風呂に入ろうよ」
莉子ちゃんの提案に僕はギクッとした。すると亜希ちゃんはニコッとして、
「入ろう」
え!? 何故か心臓が飛び出しそうな程速く動き出した。
「覗かないでね、武君」
真子ちゃんにそう言われ、更に顔が赤くなった。でも、亜希ちゃんは微笑んで、
「武彦、一緒に入る?」
いきなりきつい冗談を放って来た。ああ、頭に血が上り過ぎて、死んでしまいそうだ……。
そして、亜希ちゃんと莉子ちゃんと真子ちゃんは本当に一緒に風呂に入った。
その間中、僕は悶々としていた。決して、亜希ちゃんの言葉に興奮してしまった訳ではない。
いや、訳ではないと思いたいだけだったのか……。
結局、西郷さんは迎えに来られなくなり、莉子ちゃんと真子ちゃんは僕の家に泊まる事になった。
その上、莉子ちゃんと真子ちゃんにすっかり懐かれた亜希ちゃんも帰れなくなり、姉が使っていた部屋で三人で寝る事になった。
まあ、莉子ちゃんと真子ちゃんが先に寝たので、僕と亜希ちゃんは母が帰るのをリヴィングで待つ事にしたんだけど。
「何だか、また子供が凄く欲しくなっちゃった、武彦」
ソファに並んでテレビを観ていた僕達。亜希ちゃんはそう言って僕に頭を寄りかからせて来た。
「亜希……」
キスをしようとした時、
「只今」
母の声が玄関で聞こえた。僕と亜希ちゃんは思わず顔を見合わせて、苦笑いした。




